礼拝説教の要約をご紹介しています。Youtubeチャンネルにて動画も配信しています。
マルコ14章10-21節
今日の箇所は、12弟子の一人であるイスカリオテ・ユダが裏切りに動き、最後の晩餐で主イエスがその事を預言する場面です。
ユダが裏切った理由は詳しく書かれていませんが、彼の方から律法学者たちに主イエスを引き渡すことを持ち掛けます。この「引き渡す」という言葉は裏切るとも訳され(10,11,18,21節)、主イエスがどのように捕らえられるかを示しています。律法学者たちは喜んでお金を支払う約束をし、実行する機会をうかがいます。
主イエスはその事を知ったうえで、12弟子と共に最後の晩餐をするための準備をしておられました。その席上で、この12人のうちの一人が裏切ることを預言されます。弟子たちは悲しんで、まさか自分ではないでしょうと口々に言い始めますが、自分ではないと確信を持てなかったのです。私たちも、いつ、どんな形で主イエスを裏切るか分からないという点で、彼らと同じです。
しかし主イエスは、そんな弟子たちを大切な過越しの食事に招き、愛を示されたのです。生まれて来ない方が良かったと思うほどの事があったとしても、赦し、神に祝福されて生きる者へと変えられるのです。
マタイ19章13-15節
「子どもたちを来させなさい。わたしの所に来るのを邪魔してはいけません」という主イエスの言葉はとても有名です。このお言葉を、子どもの居場所という視点から考えたいと思います。
「居場所」という言葉は、元は居る場所を意味するだけでしたが、不登校の子どもたちのためのフリースクールから「安心して居られる場所」を意味するようになったそうです。(阿比留久美『子どものための居場所論』)
子どもが健全に育つためには、そういう居場所が必要です。大人から何かの価値観ややり方を強制されるのではなく、神から与えられた「生きる力」を発揮する場所です。親や周りの大人はあれこれ関わり過ぎず、子どもの「育つ力」を信頼して、子どもが自分で考え動けるスペースを与えてあげる必要があります。
主イエスの所に連れて行くのは、親の価値観ややり方から子どもが自由にされる事でもあります。第3の場所である教会に行き、自分を無条件で愛して受け入れて下さっている神を知る。そこで子どもは健全に育つのです。子どもは「天の御国はこのような者たちのものなのです」と言われる存在なのですから。
使徒1章1―7節
神を信じる者たち、神の家族としての教会の姿を、使徒の働きから学んでいきます。
使徒の働きはルカの福音書の続編であることが語られるところから始まります。主イエスの行いや教えがどのように始まり、十字架と復活を経て天に帰られたところまでが福音書で語られました。その続きとして、どのように神の家族である教会が建てられ、成長して行ったのかが記されています。この働きを始められ、今も進めておられるのは主イエスなのです。
主イエスが語られた福音を伝えて行くのに、弟子たちは力不足でした。人間の決意や努力ではできない事でした。ですから主イエスは「約束された聖霊が与えられるのを待ちなさい」と語られたのです。私たちは、待つのが苦手です。タイミングを自分で決め、自分の思い通りにしたいのです。しかし、神が事を起こされるまで待つことが大切です。
聖霊のバプテスマとは、神を信じた時に聖霊なる神が私たちの内に来て下さる事です。そうして初めて私たちは本当の意味で聖書を理解し、行うことができるようになります。そして、自分ではとても成し遂げられないようなことを実現し、神の存在や神の愛を証ししつつ生きることができます。聖霊の助けと導きを求めつつ、力をいただいて生きる恵みを経験しましょう。
第2コリント5章17節
外国の方と比べると、日本人には自分が嫌いという人が多いように感じます。他人がうらやましかったり、あきらめていたり、自分を変えるつもりはないといいながらも自分が好きではなかったりします。それは、自分に関して間違った思い込みをしているからではないでしょうか。
自分に点数をつけるように、他人から評価されるか、愛されるかを気にしてしまうのです。自分に呪いをかけて縛るような思い込み、価値観があるのです。それを解きほぐすことが必要です。
心理学的なアプローチももちろん有効です。しかし、もっと大切なのは神のまなざしに気づくことです。あなたを愛しておられる神のまなざしがあるなら、他人や自分の評価は重要ではなくなります。
また、神を信じるなら、実際に自分が変えられ、新しく創られた人になることができます。無から有を生み出すことのできる神が、私たちを作り変えて下さるのです。それは別人になるという事ではありません。神が意図された私らしさを回復し、本当に私らしく喜んで生きるようになることなのです。
この素晴らしさを味わっていただきたいと、心から願います。
マタイ28章16-20節
マタイの福音書の最後に記されている、主イエスの最後のメッセージは「あらゆる国の人々を弟子としなさい」でした。死んでよみがえられたばかりで、弟子たちも不安の中を通ってきたので、「死と復活はこういうもので、恐れるに足らない」と語られてもよさそうなのに、そうされませんでした。それよりももっと大切なことが、「弟子としなさい」だったのです。
弟子とは、自分の願いを聞いてもらうためについてきている人ではありません。主の願いを知り、その願いに答えるために自分自身のいのちをも喜んでささげる人です。まず私たち自身が、弟子とならなければ、他の人を弟子とすることはできません。
また、私たちが自分の才能や努力で弟子となったり、他の人を弟子とすることはできません。それは神の助けが必要です。ですから、主イエスは最後に「私はいつもあなたがたと共にいます」と約束して下さったのです。
教会の新しい建物が完成して行くのは、ワクワクすることです。しかし、それが一番の目標でもゴールでもありません。自分が弟子となり、私たちの周りの人から、世界中の人が弟子となること、それがゴールなのです。「主よ私を弟子として下さい」と心から願います。
マルコ14章1-9節
過越しの祭りを2日後に控えて、祭司長と律法学者たちはイエスをだまして捕えて殺す方法を探していましたが、暴動が起きかねないので祭りの間はやめておくことにしました。しかし結果的に、祭りの期間に主イエスは十字架につけられるのです。それは神のご計画でした。過越しの小羊--出エジプトを記念するために小羊を屠り、その血を門柱と鴨居に塗る--として、主イエスは十字架にかかり血を流されたのです。
まだ誰も主イエスが十字架で死ぬことを知らない時に、ある女性が高価なナルド油の壺を割って主イエスの頭から注ぎました。それを見た弟子たちはとても怒って、「高価なものを無駄にした! 貧しい人に施すべきだ」と正論で女性を責めました。しかし、彼らは実際には施しなどしません。犠牲を払わないのです。
主イエスは、彼女は良いことをしたのだとかばいました。「貧しい人に施すのはいつでも、これからもできる。しかし彼女は私の埋葬の準備をしたのだ。このことは記念として語りつがれる」と。確かに無駄に見えるかも知れませんが、彼女は自分の一番良いものを主イエスにささげました。その姿勢を主イエスは喜ばれ、それがかぐわしいささげ物となったのです。
私たちは自分自身を神にささげているでしょうか。
ローマ12章17-21節
神を信じる者の生き方、考え方を教える中で、パウロは12章9節から21節にかけて愛を表すことについて語っています。今日の箇所は、敵を愛するという主イエスの教えは具体的にどういうことなのかを教えています。
まず、悪を行なってくる人に対して、仕返ししないで良いことを返す。自分で復讐してはいけない理由は、復讐は神しかしてはいけない事だからです。私たちは、復讐という名目で自分が悪を行なうことを正当化しやすい者です。そこには報復と憎しみの連鎖が生まれます。仕返ししたい気持ちは痛いほどわかります。しかし、正しい復讐・裁きは神にしかできないので、神の怒りにゆだね、私たちは平和を求めるべきなのです。
また、敵に良くするように言われます。これも主イエスが語られた事と同じです。その理由として「彼の頭上に燃える炭火を積む」と言われます。これはそれが復讐になるからではなく、彼が悔い改めることを求めるという事なのです。
悪に仕返しをするのは、報復と憎しみの連鎖に巻き込まれることで、それは悪に負けていることになります。そうではなく、善を返すことによって悪に打ち勝てるのだと教えられます。なんと高尚で奇跡的な勝利でしょうか。それは主イエスに愛され、罪を赦された者には可能なのです。
マルコ13章32-37節
キリストの再臨と世の終わりがいつなのか、私たちは知りたいと願います。しかし、主イエスははっきりと「その日、その時がいつなのかは、だれも知りません」と語っておられました。知ることができないのだと言われます。ですから、いつ、という話をする人は偽クリスチャンで、私たちを騙す人です。
私たちに命じられていることは、いつかを知ろうとするのではなく、いつ主イエスが来られてもいい生き方をしなさいという事です。気を付けて、目を覚ましていなさい、とは、常に心の準備をしていなさいという意味です。
いつ主イエスが再び来られてもいいように、主イエスから託された働きを精一杯果たしていく。その事で、私たちの生き方が健全で充実したものになって行きます。緊張感があります。しかしそれは、さぼっているところを見られたくないという緊張感ではなく、私のために命を捨てるほどに私を愛して下さった主イエスを失望させたくないという緊張感でありたい。地上で託された働き、主イエスの事を知らない方にお伝えする働きを、精一杯行い、主イエスが来られるのを楽しみに待ちたいと願います。
黙示録14章13節
多くの人にとって、死は忌み嫌うべきけがれで、死は不幸であり、できるだけ先延ばしにして日常生活で意識したくないものなのではないでしょうか。しかし、この聖書の箇所には「死者は幸いである」と言われています。けがれでも不幸でもない、幸いな死があると言われるのです。ここに、死生観の大きな転換があります。
幸いな理由の一つ目が、死んで終わりではなく死後の永遠の世界、天国があるという事です。そこでは、労苦から解き放たれて、安らぐことができます。生前の行いがついて行くと言われます。
しかし、生前の行いが良い事ばかりという人はいないでしょう。それで二つ目の理由が大事になります。「主にあって死ぬ」ということです。今までの人生で主イエスを知り、信じて死ぬならば、私たちの罪が解決され、死後の世界でも、神の祝福をいただくことができるのです。
この事が分かると、晩年の生活に希望が持てますし、天国で再会するのを楽しみに生きることができます。
死が、不幸でもけがれでも呪いでもない、幸いであると言える人生は安心です。私たちもそのように生きて死にたいと願います。
イザヤ書46章4-11節
敬老礼拝にふさわしいみことばをと願って、この箇所に決めました。ここには、私たちが年を取っても変わらずに私たちの事を大事にして下さる神のことばが書かれています。
年を取ると、自分の実感としても衰えを感じたり、自分の価値を感じられなくなったりすることがあります。また周りの対応も、年寄らしく振舞うようあれこれ言われたり、大事にされなくなったりということもあります。
しかし神は、私たちを、子ども時代や若かったときと同じように大事にして下さるというのです。抱える課題は年代によって変わってきますが、神は変わらず私たちの味方で、私たちを助けて下さるのです。それは本当に、あり得ないこと、ありがたいことです。
この神は、人間の手で作った像のように動けない方ではありません。また、起こることをあらかじめ言い当てるだけでなく、ご自分が語った事を実現される方です。そんな方を知って、願い事を祈れるというのは、なんと心強い事でしょうか。若い時以上に、年を重ねた時にそのありがたみがより分かります。
この神に祈ってお任せできる安心を、ぜひ実感して下さい。お祈りします。
マルコの福音書13章21-31節
世の終わりの苦難の預言に続いて、主イエスは偽キリストの事を語られます。世の終わりの時に、キリストがここにいるとかあそこにいると聞いても信じてはいけないのです。偽キリストや偽預言者が人を惑わそうとして奇跡をも行う。その事を前もって警告しているのだと言われます。
また、空が暗くなり天体が揺り動かされるような現象が起こるので恐ろしくなりますが、その時こそキリストが再臨されます。一部の人だけに分かる形ではなく、誰が見ても分かるように、雲のうちに来られるのです。
いちじくの木の枝や葉の様子から夏が近いことが分かるように、世の終わりの出来事が起こったらキリストがすぐに来られると知りなさいと言われます。同時に、これらの事がすべて起こるまでは、終わらないとも語られました。その日が近いという面と、語られたことが全て実現するまでは終わらないという面の両方があるのです。
また、その日には天地が消え去ると言われます。恐ろしいことです。しかし、主イエスのことばは決して消え去らない。何があっても変わらず、信頼できることばです。ですから私たちは、安心して期待して主イエスの再臨を待つことができるのです。
ローマ人への手紙12章9〜16節
自分を神にささげてつくり変えられた者として、何が良いことなのか、3-8節に続き9-21節でも語られます。
最初に「愛には偽りがあってはなりません」と命じられます。神を愛し、人を愛する心が本当に純粋であること。それが中心です。そのためには、悪を憎み善から離れないことが必要です。
具体的には互いに愛し合い尊敬しあうこと。主に仕える点で勤勉である事。希望を持ち喜び続けるために、苦難に耐え祈り続けること。助け合って生活し、精一杯もてなすこと。これが純粋で偽りのない愛です。
また自分たちの信仰を迫害する者に対しても、呪うのではなく祝福を祈るようにと言われます。つくり変えられなければできません。また喜びと悲しみを共にし、キリストの体として教会が一つになるように、そのためにはプライドに振り回されないことが必要です。
このように生きることができたら、私たちの毎日の生活はどんなに幸せで楽しい事でしょうか。神を信じ、神に自分をささげ、神につくり変えられた者として生きていきたいと願います。またこの福音を身近な方にお伝えできるようにと心から願います。
ヨハネの福音書13章34-35節
(1)教会はキリストのからだであり、すべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておられるところです。(エペソ人への手紙1 章23 節)
(2)また、御子はそのからだである教会のかしらです。(コロサイ人への手紙1 章18 節)
(3)イエスは答えられた。「第一の戒めはこれです。『聞け、イスラエルよ。主は私たちの神。主は唯一である。あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』(*申命記6:4~5) 第二の戒めはこれです。『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。』(*レビ記19:18)これらよりも重要な命令は、ほかにありません。(マルコの福音書12 章29~31 節)
(4)わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります。(ヨハネの福音書13 章34~35 節)
(5)子どもたち。私たちは、ことばや口先だけではなく、行いと真実をもって愛しましょう。(ヨハネの手紙 第一3 章18 節)
ヤコブ3章16節-4章4節
8/15の敗戦の日にちなんで、争いに関して教えている聖書箇所を読みます。
人間の争いは、人の内側で戦う欲望から出て来ます。戦争の原因は、色々と説明できるかも知れません。宗教戦争と呼ばれるものもあります。しかし、突き詰めれば人間の欲望が原因だということです。人間は、欲しがっても手に入らないと人殺しをし、争ったり戦ったりするのです。
何かが自分のものにならない理由の一つ目は、求めないからです。これは言い換えると、求めるべき方に求めてないという事でしょう。神に求めて祈るべきなのに、自分で何とかしようとするからです。理由の二つ目は、人のためではなく自分の快楽という悪い動機で求めるからです。そしてそれは、神よりも世を愛する事、神と敵対することなのです。
しかし、神がくださる信仰と知恵によって、私たちは平和をつくる者となれます。純粋で、平和で、優しく、他の意見を受け入れ、行動に現れ、偏見も偽善もない、そんな人になれるのです。そういう人が、平和をつくり出せるのです。
マルコ13章14-23節
世の終わりの始まりについて、主イエスがさらに具体的に語られます。
一つは、神がおられるべき場所に神でないものが祭り上げられ、そこから大きな苦難が起こるという事です。私たちは、神を信じたらあらゆる苦難から救われると思いたいのですが、苦難を経なければならないという場合もあるのです。実際にこの出来事は紀元70年に起こりましたし、世の終わりにも起こるのです。
しかしその苦しみは、「逃げる」ことができるものであり、また神がその期間を短くして下さるとも言われています。私たちが最後まで耐え忍べるように、神が助けて下さるのです。
次に、偽キリストが現れる事への警告が再度語られます。偽物なのに奇跡を行って人々をだまそうとするので、キリストがいると言われても信じるなと警告されています。なぜなら、キリストは誰が見ても分かる形で来られるので、意見が分かれたらそれは偽物なのです。
主イエスは、私たちが苦難の中でも耐え忍んで乗り越えられるように、前もってすべての事を語って下さいました。ですから、苦難に直面した時も「語られていたことが起こってるだけだ」と受け止められますように。そしてその先にある救いを期待しましょう。
ローマ12章3-8節
12章1-2節で、自分の毎日の生活を神にささげる事が礼拝だと教えられ、神に変えていただくよう勧められました。3節から、変えられた生き方が語られます。一番大切なことは、慎み深く考えなさいという事です。
私たちは、自分を過大評価するのでなく、信仰の物差しで自分と他者を見る。人との比較で優劣を考えるのでなく、神が下さった賜物を感謝して用いるように、と言われるのです。私たちが本当に変えられたかどうかは、人との関り方に現れるのです。
賜物を用いての働きで大切なのは、預言と奉仕の2つです。預言とはみことばの説教、奉仕とは愛による互いのケア(福祉的働き)で、預言に付随して教えと勧め、奉仕に付随して施しと指導と慈善があります。礼拝でみことばが正しく生き生きと語られること、また語られたみことばをさらに教え、生活に適用するよう勧める。また、弱い者、小さい者を支える施しや慈善、それを励ましていく指導。これらが教会が大切にすべき働きであり、神はそのための賜物を一人一人に与えて下さっています。
わたしたちの宇治福音自由教会も、この預言と奉仕を大切にし、一人一人がキリストの体の器官として互いに仕え合って行けますように。
ヘブル12章2-11節
人生には必ず、試練や苦しみがあります。それをどのように克服するかが、私たちが幸せに生きるために非常に大切です。聖書には、他では決して得られない知恵がちりばめられています。
聖書を通して神が教えておられる試練の意味の一つは、神が与えられる訓練だという事です。第一に、親が愛する子どもを訓練するように、神は私たちを実子として扱い、訓練されるのだと言います。
私たちの肉親は、人間としての限界や未熟さを抱えながらも私たちを訓練しました。そうであれば私たちは、親よりも完全に正しく私たちのためになる訓練を下さる神を信頼して従い、訓練を全うする必要があります。
第二に、訓練を受けて鍛えられた人は、素晴らしい実を人生に実らせることができると教えます。試練を経験したからこその輝きが、私たちの人生に宿ると言うのです。このことも、私たちは経験として知っているのではないでしょうか。
しかし、試練はそのときは苦しく思えるのも事実です。だからこそ、私たち以上の試練を克服され、その上で私たちを助けて下さる主イエスから目を離さないことが大切です。主イエスを知り、見続けましょう。
ローマ12章1-2節
7/7の礼拝でエペソ書から、私たちが教会全体として一人の大人のように成熟すべきことを教えられました。信仰と知識において一致し、惑わされずに愛をもって真理を語ることで成長するのです。そして、一つとなることを教えているもう一つの箇所がこのローマ12章です。
その前提は、神のあわれみによって主イエスが、私たちのために命を捨ててまで救って下さった事実です。その恵みに答えたいという思いのゆえに、私たちは自分自身を神へのささげ物として、生涯ささげ続けるのです。
けがれや罪から離れて聖なるささげ物であり続けるために、この世の価値観や考え方に迎合しないことが必須です。しかし私たちはつい罪に惹かれるので、神によって自分を変えていただかなければなりません。そうして初めて、私たちは神のみこころを知り、どのように生きればいいのかを見分けることができるようになります。
そのような生き方を、1日とか1週間ではなく、天の御国に行く日までずっと続けるのです。それこそが私たちの礼拝なのです。日曜日に1時間だけささげるこの礼拝ではなく、私たちの生き方が礼拝になること。それを神は望んでおられ、その生き方が本当に深い喜びをもたらします。この喜びを経験させていただきましょう。
マルコ13章9-13節
世の終わりの時としるしをたずねた4人の弟子に対して、主イエスは今日の箇所で2つ目のしるしを語られます。それは、迫害です。
裁判にかけられ、打ちたたかれ、総督や王たちの前に立たされると言われます。しかしそれが、迫害に苦しむと言うだけにとどまらず、逆に福音と救いを証しする機会となると言われます。逆境が実は福音を伝えるチャンスとなるのです。
私たちは、逆境に陥ると何とかやり過ごすことしか考えられないかも知れません。しかし、逆境が文字通りチャンスなのです。しかも、その時に語るべきことは、聖霊なる神が与えてくれる。話される主体は聖霊なのだと励まされます。
迫害が家族にも争いをもたらすとも語られます。さらに恐ろしい状況です。しかしそれも恐れるに足りません。最後まで主を証しし続けるなら、救われるのです。これは、安全や命が守られるという事とは違うでしょう。たとえ命を失うことがあったとしても、神の救いをいただくことができる。死をも恐れずに済むなら、怖いものはありません。私たちの価値観が変わるようにと、励まされているのです。
エペソ4章11-16節
教会の建物の完成に向けて、私たち自身もキリストの体として建て上げられて行く事が必要ですが、その事を教えているのが今日の聖書箇所です。
パウロは教会に集う一人一人をキリストのからだと呼び、そのからだ=教会そのものが建て上げられるためにキリストご自身が教職者を任命されたと語ります。
成長とは何かというと、キリストに対する信仰と知識という点で一つになる事、教会の人々がまるで一人の人のように一致し成熟する事、それはキリストの姿でもあります。逆に霊的な子どもは間違った教えに翻弄され、一致とは逆のバラバラになります。教会の一致を乱す教えは、悪巧みや悪賢い策略から出ています。一見聖書を引用しているようでも、聖書全体のメッセージとは違う事を主張するのです。
そうではなくて、「愛をもって真理を語る」ことが成熟のしるしです。怒りによって責めるのではなく、愛によって語るのです。そして一部でなくあらゆる点において、キリストに向かって成長できるのです。そうするなら、一人一人がキリストによって、体が節々で組み合わされているように一つとされ、各々が持ち場に応じて働くことで成長し、愛の内に一つに建てられて行きます。このように成長させていただきましょう。
エホバの証人(ものみの塔)・統一協会(教会)・モルモン教とは関係ありません