礼拝説教 要約と音声


礼拝説教の要約をご紹介しています。Youtubeチャンネルにて動画も配信しています。

2024年9月1日

偽りのない愛

ローマ人への手紙12章9〜16節

 

自分を神にささげてつくり変えられた者として、何が良いことなのか、3-8節に続き9-21節でも語られます。

最初に「愛には偽りがあってはなりません」と命じられます。神を愛し、人を愛する心が本当に純粋であること。それが中心です。そのためには、悪を憎み善から離れないことが必要です。

具体的には互いに愛し合い尊敬しあうこと。主に仕える点で勤勉である事。希望を持ち喜び続けるために、苦難に耐え祈り続けること。助け合って生活し、精一杯もてなすこと。これが純粋で偽りのない愛です。

また自分たちの信仰を迫害する者に対しても、呪うのではなく祝福を祈るようにと言われます。つくり変えられなければできません。また喜びと悲しみを共にし、キリストの体として教会が一つになるように、そのためにはプライドに振り回されないことが必要です。

このように生きることができたら、私たちの毎日の生活はどんなに幸せで楽しい事でしょうか。神を信じ、神に自分をささげ、神につくり変えられた者として生きていきたいと願います。またこの福音を身近な方にお伝えできるようにと心から願います。


2024年8月24日

愛される教会

ヨハネの福音書13章34-35節

 

(1)教会はキリストのからだであり、すべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておられるところです。(エペソ人への手紙1 章23 節)

(2)また、御子はそのからだである教会のかしらです。(コロサイ人への手紙1 章18 節)

(3)イエスは答えられた。「第一の戒めはこれです。『聞け、イスラエルよ。主は私たちの神。主は唯一である。あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』(*申命記6:4~5) 第二の戒めはこれです。『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。』(*レビ記19:18)これらよりも重要な命令は、ほかにありません。(マルコの福音書12 章29~31 節)

(4)わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります。(ヨハネの福音書13 章34~35 節)

(5)子どもたち。私たちは、ことばや口先だけではなく、行いと真実をもって愛しましょう。(ヨハネの手紙 第一3 章18 節)


2024年8月18日

争いの原因

ヤコブ3章16節-4章4節

 

8/15の敗戦の日にちなんで、争いに関して教えている聖書箇所を読みます。

人間の争いは、人の内側で戦う欲望から出て来ます。戦争の原因は、色々と説明できるかも知れません。宗教戦争と呼ばれるものもあります。しかし、突き詰めれば人間の欲望が原因だということです。人間は、欲しがっても手に入らないと人殺しをし、争ったり戦ったりするのです。

何かが自分のものにならない理由の一つ目は、求めないからです。これは言い換えると、求めるべき方に求めてないという事でしょう。神に求めて祈るべきなのに、自分で何とかしようとするからです。理由の二つ目は、人のためではなく自分の快楽という悪い動機で求めるからです。そしてそれは、神よりも世を愛する事、神と敵対することなのです。

しかし、神がくださる信仰と知恵によって、私たちは平和をつくる者となれます。純粋で、平和で、優しく、他の意見を受け入れ、行動に現れ、偏見も偽善もない、そんな人になれるのです。そういう人が、平和をつくり出せるのです。


2024年8月11日

苦難を通しての救い

マルコ13章14-23節

 

世の終わりの始まりについて、主イエスがさらに具体的に語られます。

一つは、神がおられるべき場所に神でないものが祭り上げられ、そこから大きな苦難が起こるという事です。私たちは、神を信じたらあらゆる苦難から救われると思いたいのですが、苦難を経なければならないという場合もあるのです。実際にこの出来事は紀元70年に起こりましたし、世の終わりにも起こるのです。

しかしその苦しみは、「逃げる」ことができるものであり、また神がその期間を短くして下さるとも言われています。私たちが最後まで耐え忍べるように、神が助けて下さるのです。

次に、偽キリストが現れる事への警告が再度語られます。偽物なのに奇跡を行って人々をだまそうとするので、キリストがいると言われても信じるなと警告されています。なぜなら、キリストは誰が見ても分かる形で来られるので、意見が分かれたらそれは偽物なのです。

主イエスは、私たちが苦難の中でも耐え忍んで乗り越えられるように、前もってすべての事を語って下さいました。ですから、苦難に直面した時も「語られていたことが起こってるだけだ」と受け止められますように。そしてその先にある救いを期待しましょう。


2024年8月4日

賜物に応じて

ローマ12章3-8節

 

12章1-2節で、自分の毎日の生活を神にささげる事が礼拝だと教えられ、神に変えていただくよう勧められました。3節から、変えられた生き方が語られます。一番大切なことは、慎み深く考えなさいという事です。

私たちは、自分を過大評価するのでなく、信仰の物差しで自分と他者を見る。人との比較で優劣を考えるのでなく、神が下さった賜物を感謝して用いるように、と言われるのです。私たちが本当に変えられたかどうかは、人との関り方に現れるのです。

賜物を用いての働きで大切なのは、預言と奉仕の2つです。預言とはみことばの説教、奉仕とは愛による互いのケア(福祉的働き)で、預言に付随して教えと勧め、奉仕に付随して施しと指導と慈善があります。礼拝でみことばが正しく生き生きと語られること、また語られたみことばをさらに教え、生活に適用するよう勧める。また、弱い者、小さい者を支える施しや慈善、それを励ましていく指導。これらが教会が大切にすべき働きであり、神はそのための賜物を一人一人に与えて下さっています。

わたしたちの宇治福音自由教会も、この預言と奉仕を大切にし、一人一人がキリストの体の器官として互いに仕え合って行けますように。


2024年7月28日

試練の意味

ヘブル12章2-11節

 

人生には必ず、試練や苦しみがあります。それをどのように克服するかが、私たちが幸せに生きるために非常に大切です。聖書には、他では決して得られない知恵がちりばめられています。

聖書を通して神が教えておられる試練の意味の一つは、神が与えられる訓練だという事です。第一に、親が愛する子どもを訓練するように、神は私たちを実子として扱い、訓練されるのだと言います。

私たちの肉親は、人間としての限界や未熟さを抱えながらも私たちを訓練しました。そうであれば私たちは、親よりも完全に正しく私たちのためになる訓練を下さる神を信頼して従い、訓練を全うする必要があります。

第二に、訓練を受けて鍛えられた人は、素晴らしい実を人生に実らせることができると教えます。試練を経験したからこその輝きが、私たちの人生に宿ると言うのです。このことも、私たちは経験として知っているのではないでしょうか。

しかし、試練はそのときは苦しく思えるのも事実です。だからこそ、私たち以上の試練を克服され、その上で私たちを助けて下さる主イエスから目を離さないことが大切です。主イエスを知り、見続けましょう。


2024年7月21日

ふさわしい礼拝

ローマ12章1-2節 

 

7/7の礼拝でエペソ書から、私たちが教会全体として一人の大人のように成熟すべきことを教えられました。信仰と知識において一致し、惑わされずに愛をもって真理を語ることで成長するのです。そして、一つとなることを教えているもう一つの箇所がこのローマ12章です。

その前提は、神のあわれみによって主イエスが、私たちのために命を捨ててまで救って下さった事実です。その恵みに答えたいという思いのゆえに、私たちは自分自身を神へのささげ物として、生涯ささげ続けるのです。

けがれや罪から離れて聖なるささげ物であり続けるために、この世の価値観や考え方に迎合しないことが必須です。しかし私たちはつい罪に惹かれるので、神によって自分を変えていただかなければなりません。そうして初めて、私たちは神のみこころを知り、どのように生きればいいのかを見分けることができるようになります。

そのような生き方を、1日とか1週間ではなく、天の御国に行く日までずっと続けるのです。それこそが私たちの礼拝なのです。日曜日に1時間だけささげるこの礼拝ではなく、私たちの生き方が礼拝になること。それを神は望んでおられ、その生き方が本当に深い喜びをもたらします。この喜びを経験させていただきましょう。


2024年7月14日

最後まで耐え忍ぶ

マルコ13章9-13節

 

世の終わりの時としるしをたずねた4人の弟子に対して、主イエスは今日の箇所で2つ目のしるしを語られます。それは、迫害です。

裁判にかけられ、打ちたたかれ、総督や王たちの前に立たされると言われます。しかしそれが、迫害に苦しむと言うだけにとどまらず、逆に福音と救いを証しする機会となると言われます。逆境が実は福音を伝えるチャンスとなるのです。

私たちは、逆境に陥ると何とかやり過ごすことしか考えられないかも知れません。しかし、逆境が文字通りチャンスなのです。しかも、その時に語るべきことは、聖霊なる神が与えてくれる。話される主体は聖霊なのだと励まされます。

迫害が家族にも争いをもたらすとも語られます。さらに恐ろしい状況です。しかしそれも恐れるに足りません。最後まで主を証しし続けるなら、救われるのです。これは、安全や命が守られるという事とは違うでしょう。たとえ命を失うことがあったとしても、神の救いをいただくことができる。死をも恐れずに済むなら、怖いものはありません。私たちの価値観が変わるようにと、励まされているのです。


2024年7月7日

成長する

エペソ4章11-16節

 

教会の建物の完成に向けて、私たち自身もキリストの体として建て上げられて行く事が必要ですが、その事を教えているのが今日の聖書箇所です。

パウロは教会に集う一人一人をキリストのからだと呼び、そのからだ=教会そのものが建て上げられるためにキリストご自身が教職者を任命されたと語ります。

成長とは何かというと、キリストに対する信仰と知識という点で一つになる事、教会の人々がまるで一人の人のように一致し成熟する事、それはキリストの姿でもあります。逆に霊的な子どもは間違った教えに翻弄され、一致とは逆のバラバラになります。教会の一致を乱す教えは、悪巧みや悪賢い策略から出ています。一見聖書を引用しているようでも、聖書全体のメッセージとは違う事を主張するのです。

そうではなくて、「愛をもって真理を語る」ことが成熟のしるしです。怒りによって責めるのではなく、愛によって語るのです。そして一部でなくあらゆる点において、キリストに向かって成長できるのです。そうするなら、一人一人がキリストによって、体が節々で組み合わされているように一つとされ、各々が持ち場に応じて働くことで成長し、愛の内に一つに建てられて行きます。このように成長させていただきましょう。