直近3週分の礼拝説教の要約をご紹介しています。Youtubeチャンネルにて動画も配信しています。
詩篇119篇71節(65-72節)
コロナ禍において、多くの人々が今は苦しみの中にいます。コロナだけではありません。私たちは人生の中で様々な苦しみを経験します。聖書は苦しみについてなんと言っているでしょうか。
詩篇119篇の著者は、「苦しみにあったことは 私にとって幸せでした。」と言っています。目を疑うような言葉です。これは現代にも通じる言葉なのでしょうか。
この詩篇119篇は、エルサレムからバビロニア帝国に強制移住させられたイスラエルの詩人によって書かれました。イスラエルの人々は、家や仕事を奪われ、民族としてのアイデンティティーも奪われました。そのような苦難の中で、人々はやがてそれまでの神への反逆を悔い改め、イスラエル民族としてのアイデンティティーを取り戻し、心を尽くして神を愛するという、神の教えに立ち返りました。神との関係性の回復によって、人々は真のいのちとゆるがない希望を得ることができたのです。
苦しみの中で新しい何かが生まれる、という思想は、イエス・キリストの十字架にも見られます。キリストの受難によって、私たちは罪の許しと、永遠の命を得ました。苦しみの中で、神を見出し、新しいいのちをいただけるという希望が私たちキリスト者にはあるのです。
ピリピ4章10-14節
ピリピ教会の人たちへの最後の励ましの言葉の後で、パウロは彼らへの感謝を伝えます。最初に経済的な支援をしてくれたことを感謝するのですが、経済的に助かったと喜ぶのではなく、彼らがパウロを案じる心が伝わっ たと言って喜ぶのです。
パウロは貧しさを経験していたようですが、それはパウロにとっては大きな問題ではありませんでした。なぜなら彼は、貧しさと豊かさの両方に対処する秘訣を心得ていたからでした。それはすごいことです。私たちは富に簡単に影響されやすい者であり、その対処は学んで会得する必要があります。
その秘訣を自分のものにするための学びは、修行ではなく、本当の満足は神から与えられるものであると知る事です。自分の持っているもので満足を得るのであれば、持たないと満足ができません。そうではなくて、自分を強くして下さる方である神が本当の満足を与えてくだ さるということを実感として知る必要があるのです。
私が手に入れる事の出来るどんな素晴らしいものよりも、神様は私たちを満ち足らせてくださいます。
ピリピ4章8-9節
ピリピ書の中で、2回目の「最後に」から今日の箇所は始まります。本当に最後に、パウロはピリピの教会の人たちに励ましのメッセージを語っています。
その内容は、すべての良いことに心を留めなさいという事でした。「すべての」ということばを何度も繰り返して、良いことはどんなことでも心に留めるようにと印象深く語ります。そして、心に留めるというのは単に覚えておくという程度ではなく、それを知った私たちを行動に向かわせるような深い知り方です。人は本当に教えられたら、行動するのです。
また、ピリピ教会の人たちがそれを学んだのは、パウロという一人の人を通してでした。パウロから学び、受け取り、聴き、生き方を見て、教えられました。そしてそのように教えられたことを実際に行いなさいと語られます。ただ善行を行うのではありません。パウロが主イエス様によって赦され、自分の力ではなく主から受けたいのちと喜びに動かされて生きたように、生きることです。その時に、平和の神が共にいてくださることを経験できます。
主イエス様に助けられて、すべての良いことに心を留め、実践でき、神の臨在を経験できますように。
ルツ記2章1-13節
異国で夫と息子2人を亡くして故郷に帰ってきたナオミと、息子の嫁のルツ。2人が生きていくために働く必要がありましたが、未亡人の外国人が就ける仕事は限られており、ルツは大麦の落ち穂拾いに出かけます。その畑が、「はからずも」ナオミの夫のエリメレクの有力な親戚であるボアズの畑でした。
ベツレヘムからきたボアズは、一生懸命に働くルツに気づき、親切な扱いをします。ルツは、よそ者の自分になぜ親切にしてくれるのかと尋ねます。ボアズは、ルツが亡き夫の姑ナオミに心から仕えていることを、詳しく聞いて知っていると話し、主があなたのしたことに報いてくださるようにと祝福します。
ルツ記では、神の働きが明確には語られませんが、確かに神が働いておられる、そうとしか思えない、という事が起こります。ルツが落ち穂拾いをしたのがボアズの畑だったこと。ちょうどその時、ボアズがベツレヘムからやって来てルツに気づいたこと。それ以前にボアズがルツの孝行を詳しく聞いて知っていたこと…。
神は、私たちの気づかぬうちに、御業を行って下さるのです。
ピリピ4章4-7節
手紙の最後の部分に至って、パウロはもう一度「喜びなさい」と語ります。この手紙の中で、聴く方にまたかと思わせてしまうかも知れない、何度も語った言葉を語るのです。それがピリピの教会の人たちに、そして私たちに必要だからです。
それは、私たちが置かれている状況がどうかは全く関係なく、主イエス様の救いをいただいているがゆえに喜べるはず、という事を思い出させます。そして、喜びからら来る寛容な心は、自分の事が第一ではなく他の人の事を考えるようにと言うことも思い出させるのです。弱い私たちの心を励ますのは、「イエス様が約束された再臨が近い」という事実です。様々な試練や苦しみは、必ず終わる時が来るという事実です。
私たちの心はすぐに心配で一杯になりますが、心配事に心を支配させず、神の恵みに感謝しつつ願いを神に祈る。そのことによって、私たちの心は常識を超えた平安で満たされ、私たちの心が倒れそうになるのを守られるのです。
不安があおられる時代に、ゆるがされる事のない本当の満足を、神様からいただくことができます。
神を信じ、聖書を通して語っておられるメッセージに聞くことです。(1)私たちは神に似せて創られているので、子どもにも生きる力があり、経験から学ぶことができ、成長できます。(2)神がすべてを益として下さるので、ハッピーエンドが約束されています。事態を把握してコントロールしなくても大丈夫なのです。子どもを含め、私たちが助けたいと願う相手に、余白をもって接したいと願います。生きて働かれる神が助てくださいます。
創世記1:27、ローマ書8:28
「多様性と利他」というテーマの番組の中で、不確実な事に対する私たちの2つの正反対の態度が説明されていました。片方は「安心」で、管理して不確実な事を限りなくゼロにしたいという方向。もう一つは「信頼」で、任せることで、大丈夫だという方に賭ける態度。現代は「安心」に振りすぎているが、「信頼」が大切とのことで、大いに納得しました。
子どもとのかかわりでも、大人である私たちが「安心」できるような接し方ばかりしていると、子どもの成長を邪魔してしまうでしょう。「信頼」して、すぐに手を出さず見守るという姿勢が、子どもにさまざまな経験をさせ、成長を助けることになります。しかし、心配性の私たちには言うは易く行うは難しです。どうしたらいいでしょうか。
神を信じ、聖書を通して語っておられるメッセージに聞くことです。(1)私たちは神に似せて創られているので、子どもにも生きる力があり、経験から学ぶことができ、成長できます。(2)神がすべてを益として下さるので、ハッピーエンドが約束されています。事態を把握してコントロールしなくても大丈夫なのです。
子どもを含め、私たちが助けたいと願う相手に、余白をもって接したいと願います。生きて働かれる神が助てくださいます。
ピリピ4章1-3節
パウロは、ピリピ教会のクリスチャンたちに、「私の愛し慕う兄弟たち、私の喜び、冠よ」と呼び掛けています。単に仲が良いというレベルを超えて、どれほど彼らを大切に思っているかということが分かります。そんなに大切な人たちだから、伝えたいことがあるのです。
それは、主にあって堅く立つということでした。それは直前に語ったように、多くの人がキリストの十字架の敵として、十字架が要らないかのように生きている中で、天に国籍を持つ者として生きることです。現実の生活の中で、さまざまな試練や困難があり、また自分の罪深さに直面して落胆することもある中で、私たちは主にあって堅く立たなければ簡単に流されてしまうからです。
具体的には、同じ思いになること、助け合うことでした。祈り合い助け合うべき仲間なのに、同じ思いになれない、
助け合えないという事を経験していたのでしょうか。それが人間です。私たちは自分の持つ何かではなく、主イエス様にすがりつつ、主イエス様の助けによって、堅く立つことができるのです。
ピリピ3章17-21節
パウロは、ピリピ教会の兄弟姉妹に対して、「私に倣う人たちのグループに加わって下さい」と勧めます。それは、パウロが本気で主イエス様に従っており、皆も同じように主イエス様に従ってほしいという願いでした。多くの人がキリストの十字架の敵として歩んでいる事に、大変胸を痛めているのです。
神を信じるクリスチャンでありながら、十字架の敵と表現されるような生き方をしている。罪を犯し、この世のことだけを考えるような生き方。
しかし、主イエス様を信じて救われたならば、すでに国籍は天にあり、天からキリストが来られる再臨を待ち望みつつ生きる者とされました。その時には、私たちの体も主イエス様の栄光の体と同じ体に変えられる。それならば、地上の事に執着し一喜一憂する生き方から解放されるはずなのです。
私たちは、どうしても古い価値観に引きずられ、元に戻ろうとします。そうならないように、国籍を天に持つ者として希望をもって喜んで生きるために、同じ弱さを持ちつつ主に従う人たちの群れに加わる必要があるのです。
ルツ記1章1-22節
今月から第1週はルツ記を読みます。
ルツ記はさばきつかさが治めていたころ(1節)、エリメレク家族(妻ナオミ、息子マフロンとキルヨン)が飢饉を逃れてモアブに引っ越すところから始まります。飢饉を逃れて少しは楽になるかと思ったら、ナオミは見知らぬ土地で夫を亡くします。心細かったでしょうけれども、息子たちがいたし、彼らは地元の女性と結婚しました。幸せだったでしょうか。しかし、なんと10年の内にその息子たちも二人とも亡くなってしまうのです。
息子を亡くすとは、どれほどがっかりし、悲しみに沈んだでしょうか。しかし、故郷で神が飢饉を解決されたと噂を聞き、帰ることにしました。耐えがたい試練の中でも、神を信じないという選択肢はなかったのです。
ナオミは二人の嫁の幸せを考えて、実家に帰って再婚するように勧めます。最初は断っていたオルパは泣きながら別れました。でも長男の嫁のルツは絶対に離れないと聞かず、一緒にベツレヘムに戻りました。出て行ったときは夫も息子たちもいて家族4人、それが嫁と二人だけの帰郷。しかしその大きな苦難の中に、神の大きな救いの計画があったのです。
マタイ6:12-15、ローマ15:7
コロナ禍で自粛警察などの行き過ぎた正義感を見て、他者に対して不寛容になっていることを感じました。コロナのせいだと思いましたが、検索すると2000年代前半からある医学部教授が指摘しておられました。これは日本社会の一つの傾向なのでしょう。
価値観の違う人を受け入れるのが難しく、正義感を振りかざして他人をバッシングする。これはインターネット上で誰かがやっているだけでなく、私たち一人一人も人を赦せないという面を持っているのではないでしょうか。人の言動が赦せない。誰かををいつまでも恨んで赦せないという苦しみを抱えている人は、多いと思います。
私たちにとって人を赦すのはとても難しいことです。自分の努力では不可能だと言っていいでしょう。そんな私たちが人を受け入れ赦せるようになるために、主イエス様は十字架にかかり、まず私たちを赦して下さったのです。私たちは、赦されるのです。そして、そのイエス様の助けによって、私たちは人を受け入れ赦すことができる
ようになります。
不寛容な時代に抗い、逆に争いのある所に平和をもたらす存在となれる。そんな奇跡を経験できたらどんな
に幸せでしょう。
ピリピ3章12-16節
パウロは、主イエス様を知り、救いにあずかったため、以前に自分を支えていたユダヤ人としてのアイデンティティーが無価値だと気づきました。そして、自分の成長(聖化、栄化)のためにもっとキリストを知ることを追及していると語ります。
私たちは、主イエスを信じたらすでに救われていますが、まだ完全に主イエスに似た者まで成長していません。神が助け導いて下さいますが、成長のためには私たちの側の心がけと努力も必要です。これらの2つの狭間にいるという事を知る必要があります。
パウロは、アスリートのような心境で、一心に努力します。「走っている」と言います。パウロのレベルにすら到底達していない私たちは、なおさら誠実に切実に求めないと、成長はおぼつかないのではないでしょうか。
でも安心なのは、まず神様が助けてくださるという、神の恵みが先にある事です。だから私たちはその上であきらめずに努力できるのです。自分の現状を自覚し、神に具体的に祈り願いながら、「走って」行きましょう。
ピリピ3章4-11節
3章に入ってパウロは、「最後に」と言いながら大切な事を語り始めました。喜ぶこと、悪い働き人に気を付けること。その悪い働き人の一つの特徴が、肉体だけの割礼の者、外面は立派に見せながら律法主義的に福音を曲解する事でした。
彼らは「これだけ律法を守っている」と自分たちこそが正しく立派な信仰者だと喧伝するのですが、その土俵に立ってもパウロは負けないと言います。教会を迫害したほどユダヤ教に熱心で、律法による義については非難されるところがない者だったと。
しかし、それほど人生を賭けて大切にしていた律法を、キリストを知って「損」と思うようになったというのです。価値観の逆転は、その時は大変なショックでしょう。しかし福音の素晴らしさを知って、他のすべてを損と思い、すべてを失っても惜しくない。律法による救いをとことん突き詰めて求めたがゆえに、キリストの救いがそれよりも素晴らしいと実感できたのです。
私たちも、自分の一番大切なものと比べても、それよりもはるかに素晴らしいこの救いを求め、それを受け取り、味わいたいと願います。
マルコ16章1-8節
金曜日に主イエス様が十字架にかかり、新しい墓に葬られました。その墓を見ていた女性たちが、安息日が明けた日曜の夜明けとともに墓に行きます。そこで大事件が起こります。墓は空っぽで、使が「ナザレ人イエスはよみがえられた。ここにはおられない」と告げたのです。
彼女たちは、イエス様が何度も「多くの苦しみを受け、殺され、三日後によみがえる」と語られたのを聞いていたはずですが、そのことは完全に忘れていました。ご遺体をきちんと埋葬するために墓に行ったのですが、主はおられないというのです。
それを聞いた彼女たちは、恐れました。自分の理解をはるかに超えた神の奇跡を目の当たりにして、事態を理解して喜ぶのではなく、恐れたのです。神の奇跡は、圧倒的に大きく、力強く、それに触れるものに恐れさえ抱かせるのです。
イエス様が、死を完全に克服して復活されたという事は、信じがたいことですが、事実です。彼女たちも恐れました。しかしその奇跡は、人類最大の悩みである死を解決する、闇の中に光を見る経験なのです。このイエス様を信じ、光を受け取っていただきたいと願います。
イザヤ30章15-21節
2021年度のみことばを祈り求める中で、このイザヤ書30:15-21を示されました。
「立ち返って落ち着いていれば救われ、静かにして信頼すれば力を得る」と神は語られましたが、それを聞いてもイスラエルの民は「これを望まなかった」とあります。神に立ち返るのではなく、自分たちの良いと思う方法で逃げようとします。しかし逃げ切れない。
ご自分に従わなかった民を、神は「それゆえ、恵みとあわれみを与えようと」されました。ちゃんと言う事を聞くからではなく、主が義なる神だからだというのです。私たちの愚かさ、かたくなさを知ったうえでなお、恵みとあわれみを与えようとして下さる神。そして、主に従いたいと願う者には、行くべき道を示して下さるのです。
私たちも、昨年はコロナに翻弄されました。新年度は、神に立ち返る時に救われ力を得る、という約束を経験させていただきたいと願います。罪・過ち・災いから救われ、喜んで主を証しする力をいただき、歩ませていただきましょう。そのためにこそ、主イエス様は十字架にかかり、救いを成し遂げてくださったのですから。
ピリピ3章1-3節
ピリピ書は4章まであるのですが、3章は「最後に」で始まります。パウロが最後に大切なことを語り始め、あふれ出て止まらなくなっているのです。
大切な事の一つ目は、「主にあって喜びなさい」です。主イエス様を信じる生き方の中で、喜ぶという事がどれほど大切かということです。喜べる環境にいるからではなく、主イエスにあることを、主イエスに愛され主イエスを信じて生きる幸いを、喜ぶようにと励まされます。
二つ目は、「気をつけなさい」です。犬ども、とはおだやかでない言い方ですが、それくらいひどい人たちがいるので気をつけなさいと言うのです。ひどい人たちとは、悪い働き人(間違ったことを教えている人)と、肉体だけの割礼の者(形だけ律法に従っている人)です。神様のために奉仕しているように見えて、間違ったことを教えて自分の欲を満たす人がいた。また、心が伴わなくても律法に従うことばかりを求めるユダヤ主義者がいたのです。
人間は、どうしても自分の何かを誇ってしまう者ですが、そうではなくイエス様だけを誇るようにと勧めます。形だけ包皮を切り取るのでなく、愛と信仰の心で、聖霊に助けられて、生きたいと願います。
ピリピ2章25-30節
パウロは、働きの報告としてテモテの事を語り、自分の今後がどうなるか分かり次第テモテをピリピに送りたいと書いた。そしてもう一人、エパフロディトの事を語る。
エパフロディトは、パウロに仕えるためにピリピ教会から派遣された人で、献金を携えてローマのパウロの元に来たようです。しかし、道中か到着してからか分かりませんが、死を覚悟するような大病をします。
彼はそれがピリピ教会に伝わったことを気にして、パウロと相談し予定を切り上げてピリピに帰る事にしました。その際に、パウロがピリピ教会に対して「喜んで迎えるよう」「尊敬するよう」に書いた手紙(ピリピ書)をエパフロディト本人に持たせるのです。
予定よりも早く、十分に責任を果たしたと言えない状況で帰らざるを得なかったエパフロディトを、その姿勢と犠牲にふさわしく、喜んで迎え、尊敬するようにと命じるのです。
時に私たちは、自分の思った通りの結果にならない時に人を責めます。しかし、自分の考えや計画に一致しなくても、愛の心をもって公正に、誰かの働きや主への姿勢を認める必要があるのです。
私たちは、その聖徒を「尊敬」しているでしょうか。
マタイ7:7-12、ローマ12:15
東北大震災と原発事故から3月11日で10年になります。あの震災以降、私たちは3月11日を「フクシマ」と無関係に過ごすことができなくなりました。西ドイツ時代のヴァイツゼッカー大統領は、有名な演説の中で「過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります」と語りました。私たちは、忘れてはならないのです。その一つ目は、罪の現実です。100%安全という嘘で原発の危険性を隠し、安全対策をないがしろにした結果、津波による事故で10年後は死の街です。そして事故がなくても放射能を10万年出し続ける核のゴミ問題を解決しないまま、原発再稼働を進める国。それを考えずに電気を使い続けることは、罪の一端を担い同じ過ちを繰り返す事になります。
もう一つは、被害に遭った方々の苦しみです。被災者の方が語られた「忘れられることが一番辛い」という言葉が心に残っています。私たちは他者の苦しみに鈍感で、簡単に忘れてしまえる部分があります。できるかぎり被災された方に寄り添い、癒しといを祈る者でありたいと願います。「喜んでいる者たちとともに喜び、泣いている者たちとともに泣きなさい」ローマ12:15
第1コリント10章13節
私たちは、苦しみに遭う時に「なぜ私が苦しまないといけないのか」「誰も分かってくれない」と感じることがあります。でも神様は聖書を通して「知っているよ」と語り掛けてくださいます。苦しみを経験する前提で、「その苦しみを知っている。わたしはあなたと共に苦しんだのだ」と語って下さるのです。人生に苦しみがある事は当然で、そこに神様の慰めや癒しを経験できるのです。
そして、感謝な事に、神様は私たちを耐えられない試練に遭わせることはされない。つまり、耐えられない試練はないという事です。もう駄目だと思っても、大丈夫だと言われるのです。なぜなら、試練と共に神様が脱出の道を用意して下さるからです。先が見えない苦しみの中で、必ず出口があると約束してくださるのです。
試練を乗り越える時に、私たちは強くなれます。試練を乗り越える時に、私たちは知恵を得ます。今回のコロナ過も、耐えられない試練ではなく、神様が用意して下さる脱出の道を通って乗り越えることができます。その時に、私たちは一つ強くなり、知恵を得ているのです。
ピリピ2章19-24節
ピリピ書の中心メッセージが2章の前半にありました。 主イエス様の恵みによって、その謙遜に倣って、思いが
一致するように。パウロはそのためなら殉教をも喜ぶと 語りました。
このパウロの様子を知ることでピリピ教会の人たちが 励まされ、またピリピ教会の様子を知ってパウロが励まさ れる。その大切な役割をテモテに託す、とパウロは伝えま す。単なる連絡係ではなく、ピリピ教会の人たちをケアし、 祈りの交わりを深めるために、彼が適任なのだと。なぜ なら、彼ほど親身になってピリピ教会の事を心配し、同時 に福音を伝える働きをパウロと共にしてきた人は他にい ません。ピリピ教会ともパウロとも深いかかわりがあった ということです。心が元気になるのは、人の愛情や思い やりや感動が伝わる時、そしてそこに神が働いて下さっ たと分かる時なのです。 ピリピ教会の人たちが一番心配している、困難な獄中 生活がどうなるのか分かり次第、パウロはテモテを送る ことを願っています。と同時に、自分も近いうちに行ける と確信していると言います。それもピリピ教会には大きな 励ましになったでしょう。
テモテのようでありたいと願います。
ピリピ2章14-18節
パウロはこの手紙の前半をまとめて、ピリピ教会の人たちに対して恐れおののいて自分の救いを達成するように(12節)、すべてのことを不平を言わず疑わずに行うように(14節)勧めます。それは、主イエス様の救いをいただいた人だけが可能です。そうするならば、彼らの信仰が成長して世の光として輝くような存在になれるし、パウロはそのために命がけで働いているのだと言います。しかも、神の前に出るタイミングが早くなったとしても、つまり殉教することがあっても喜べるし、彼らにも喜んでほしいと願います。それは、神の前に出た時に自分の労苦が無駄でなかったと誇れるからだと言うのです。パウロは、1章にもあったように、死を全く恐れていませんでした。そして人生の目的や喜びは、自分の半径1mのこじんまりした幸せではなく、福音を伝えてその人たちが成長していくことでした。信じている通りに語り、語っている通りに生きた人でしたので、ピリピ教会の人たちにとって具体的な手本でした。私たちも、神の恵みによってパウロにならい、共に喜ぶことができますように。
使徒8:1-4、ローマ8:28
現在私たちは、世界中でコロナのためにさまざまな困難を余儀なくされています。こんなに大変な事は歴史上なかったのではないか、いつになったら解決するのか、と考えてしまいます。しかし聖書には、多くの困難な出来事とともに、その困難や試練が次の祝福のきっかけとなったということが記録されています。使徒8章の出来事もそうです。
サウロ(後の使徒パウロ)が12弟子の一人ステパノを殺すことに賛成し、クリスチャンの家に押し入って教会を荒らし、人々を引きずり出して牢に入れていました。このような迫害が起こったために、エルサレム教会のクリスチャンたちは、国中に散らされて逃げて行かざるを得なくなりました。
しかし、散らされた人たちはただ逃げたのではなく、行く先でキリストを伝えながら巡り歩いたとあります。強制的に出て行かざるを得なくなり、結果的にキリストの福音が一気に遠くまで広がったのです。
私たちには災難と思われる出来事が、良いことのきっかけになる。私たちはそんな奇跡のような素晴らしい経験を、キリストにあって味わうことができるのです。主イエス・キリストを信じる素晴らしさを味わって下さい。
ピリピ2章12-13節
救いは神によるのであり、私たちが自分で自分を救うことができない。これが聖書が語っていることです。では、今日の「自分の救いを達成するよう努めなさい」とはどういうことでしょうか。
一つは、救いという言葉のうちに、「最初に主イエス様を信じてクリスチャンとなる」という意味と、「私たちが主イエス様に似た者へと成長する先に完成がある」という2つの意味が含まれるということです。今日の箇所では「達成」とあるように後者の意味で語られています。
もう一つは、その救いの達成のためには、私たちが恐れおののいて「努める」、という側面が必要だということです。私たちは、「ただ神の恵みの内に憩い、神が私の内に働いて下さるように」しさえすればいいのではなく、「努める」ことが必要だと語っておられるのです。
とは言え、私たちが努めるためにも神が助けてくださり、思いを与え、実行させて下さいます(13節)。神の助けによって、律法的にではなく喜んで、神の力を経験しながら、努めることができるのです。自分のことだけでなく他の人も顧み、心と思いを一つにすることができるのです。
神に感謝します。
第1コリント15章58節
このコリント人への手紙でパウロは15章に至るまでいろんな問題を扱い、復活の希望と、罪と律法に対するキリストの勝利を語った後で、「ですから」と続けます。
コリント教会の人たちは、いろんな意見に左右されて、信仰が揺らいでいました。罪深い行為も行っていたようです。だからパウロは、「堅く立って、動かされることなく」と激励しました。私たちも、何かがあったらすぐに揺らいでしまう者です。ですから、堅く立って動かされないようにと祈る必要があります。
しっかりと立って何をするのか。それは、いつも主のわざに励むという事です。主イエスから託された、主イエスが喜ばれる働きを継続するのです。キリストの福音を伝えること、神と人とに仕える事を。
そしてその労苦が無駄でないと知っていることがモチベーションになります。主イエスが私たちの努力をすべて知っていて下さる。そして、私たちの地上の生涯が終わってからも天の御国に引き継がれる。私たちが主にあって労苦したことが無駄にならない。本当に励まされます。
コロナの中で、あるいは試練に直面して、心が折れそうになることがあるかも知れません。しかし、私たちの労苦が絶対に無駄にはならないことを知り、しっかりと立って主のわざに励みたいと願います。
エホバの証人(ものみの塔)・統一協会(教会)・モルモン教とは関係ありません