礼拝説教の要約をご紹介しています。Youtubeチャンネルにて動画も配信しています。
詩篇46篇1-11節
2020年に続いて2021年も、各個人や教会、国や世界全体も大変な1年でした。しかし、その中でも神様が守り、その中でも祝福を与えて下さったことを思わされます。
この詩篇46篇は、神が避け所であり、苦しむときの強き助けだと告白しています。天変地異のように大きな自然災害や社会的変化や問題が起こっても、恐れずにいられるのだと。それは、その自然さえも支配しておられる神が共におられる、私たちの味方だからです。
人間の建てた都(人間の成果)は揺らぎますが、神は決して揺るがされません。
また、人間の争いや愚かな営みをやめさせられます。 私たちが政治を通して社会をよくすることはとても大切ですが、それを超えて神がなされること、やめさせられることがあります。神は人間の営みに「やめよ。わたしこそ 神であることを知れ。」と語られるのです。
この神が、私たちと共におられ、私たちの砦であったならば、何も恐れる必要がありません。神を信じ、この確かな「そこにある」助けを経験しましょう。神の祝福があるようお祈りします。
ルカ2章8-14節
クリスマスに主イエス・キリストのご降誕をなぜ世界中でお祝いするかと言うと、それはあなたを含むすべての人の救い主だからです。
救い主ご降誕の知らせは、一番に羊飼いに伝えられました。社会的にも宗教的にも決して尊敬される立場ではなかった彼らに、最初に伝えられたのです。
伝えられた内容は、「あなた方のために、救い主が生まれた」という事でした。直接関係ないと思っているような「あなた」のために、人間のあらゆる苦しみから救って下さる「救い主」だというのです。
神が私たちのために人となって地上に生まれて下さった。そんな方はこの主イエス様しかいません。だからすべての人は無関係ではなく、「あなたの」救い主となって下さるのです。
また、救いを必要としていない人は一人もいません。一つのチェックポイントは「平和」です。心に平和が与えられ、人との間に平和が与えられる。すべての人が必要としながら得られず、あきらめて見ないふりをしているものです。それが与えられるのです。
この方を、「わたしの救い主」として信じ受け入れるクリスマスとなりますように。
マルコ2章1-12節
主イエスがカペナウムに戻って来て家におられると、人々が押し寄せて来て家がいっぱいになり、主はかれらにみことばを話しておられました。 その時、中風の人が4人の友人に担がれて来ましたが、群衆のために家に入れなかったので、彼らは屋根をはがしてその中風の人を寝床のままつり降ろしたとあります。とんでもないことをしたものですが、それくらい切羽詰まって、主イエスに癒していただきたいと願ったのでした。主イエスは、彼らの信仰を見られました。友への愛と、必死さを見られました。主イエスが御業を行われるのは、信仰を見た時です。しかし病をいやすのではなく、「あなたの罪は赦された」と宣言されました。きっとその人には病気以上に罪が問題だと見抜かれたのでしょう。しかし律法学者は「罪を赦すのは神にしかできない事だから、冒涜だ。出まかせを言ってる」と内心文句を言いました。主イエスは、ご自分が罪を赦す権威を持っていること、つまり神であることが分かるようにと、中風の人を癒やされました。主イエスの御業には理由があります。私たちは、主イエスが罪を赦す権威を持っていると知っているでしょうか。経験しているでしょうか。
第1テモテ1:15-16,2:4
パウロは、主イエスが罪人を救うために来られたのが事実であると告げるだけでなく、自分こそがその罪人のボスであるという自覚がありました。クリスチャンを迫害した自分のような罪人があわれみを受けて救われたのは、全ての人がこのあわれみ・恵みを受けられる先例なのだと語ります。
自分でさえも赦され、救われた。この自覚は強烈です。神は、すべての人が救われることを望んでおられる。それはこんな罪人が赦されて救われたという事実と結びついているのです。
私たちは、自分の計画に対する神の御心を知りたいといって求めることがあります。神の御心が分からないという時もあります。しかし、常に明らかな神の御心は、「すべての人が救われて、真理を知るようになること」と、その救われた人が「もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きる」ことです(第2コリント5:15)。
その2つに徹したいと願います。そこに本当の幸いがあり、他の事への御心も明らかになって行きます。
ルカ1章26-38節
クリスマスから4週前の日曜日からアドベント(待降節)と言われる、クリスマスを待ち望む時期です。クリス マスのプレゼントやイベントを楽しみにする以上に、主イエスのご降誕を祝うクリスマスを待ち望むときです。マリアが御使いガブリエルからお告げを受ける場面を読みますが、改めて考えるとクリスマスの10か月前のことです。
ある日突然、ヨセフと婚約中であるマリアのところに御使いが現れ、まだ結婚生活が始まってないのにマリアが 妊娠して男の子を産み、その子が神の子と呼ばれると告げたのでした。
マリアは当然理解できませんし、大変とまどいますが、「神にとって不可能なことは何もありません」との言葉に不思議に納得して「おことばどおり、この身になりますように」と答えます。理解できない事が起こるというストレスだけでなく、この先に起こることが自分を苦しめることに なるのに(ヨセフを裏切ったと誤解される)、マリアは受け入れたのでした。
救い主のご降誕という素晴らしい出来事の前に、一人の人が神のことばを信頼して、苦しみをも受け入れるというプロセスがあったのです。
マルコ1章40-45節
ガリラヤ地方全域で福音を伝えておられた主イエスのところに、ツァラアトという病に冒された人が来てひざまづいて懇願しました。以前は「らい病」と訳されていた言葉で、今は違う病気と言われている、重い皮膚病です。
この病気は、病気の症状として見た目がひどくなるのが辛く、さらに辛いのは宗教的に汚れているとされることでした。この人が辛い人生を送ってきたことは、容易に想像がついたのでした。
主イエス様は、深くあわれみ、手を伸ばして彼に触りま した。触れた者も汚れると言われるツァラアトに。そして 「わたしの心だ。きよくなれ」と命じられると、ツァラアトが消えたのでした。病気が治った事が一番うれしかったと思いますが、もしかしたら同じくらい、あえて手を触れてくれた主イエスの気持ちが伝わり、嬉しかったのでしょう。 彼は誰にも何も話さないように厳しく戒められたのに、言いふらしてしまいます。
人が殺到するので主イエスは、町の外の寂しい所に滞在せざるを得ませんでした。主イエスはその彼の行動をも赦しておられるように感じます。深いあわれみで…
マルコ10章13-16節
親や周りの大人が子どもたちのためにしてあげられる事で、大切なことは何でしょう。その一つは、子どもたち が神様からいただいている力、本来持っている力を発揮 できるようにする事です。しかもそれは、能力や才能という面だけでなく、心の面がより重要です。
まっすぐ伸ばしてあげたいと願いますが、親である私たちがゆがんでいるので、それは案外難しいと感じておられるでしょう。ですから主イエス様は、「子どもたちを私 のところに来させなさい」と言われたのです。
本当にまっすぐで何のゆがみもなく、あふれるほどの愛情をもって自分を愛して下さる神様を知ることが、子どもにとって必要不可欠です。また、そのために教会に来ることによって、親でも教師でもない、受け入れてくれる大人がいるという事が本当に大きな支えになります。
また、子どもを連れてくることは、子どもだけのためではなく、結果的に親の成長にもつながります。天国は子どものような人のものだ、と主イエスは教えられました。 大人は、子どもから学ぶ必要のある存在だと言われるのです。子どもと一緒に主イエス様のところに行き、子ども のように主イエス様を信じて生きる幸いを経験してください。
マルコ1章35-39節
主イエス様は、大変な忙しさの中で、夜が明ける前に淋しいところに出て行ってそこで祈られたと書かれています。私たちはいつでもどこでも祈ることができます。それは恵みです。同時に、特別に神様とじっくり交わって祈るためには、時と場所を選んでそれに専念する、「聖別」することが必要な場合があります。
しかし、そんな主イエス様の祈りを中断させた人たちがいました。それは弟子たちでした。自分たちの先生が人々に必要とされているという事が嬉しかったからでしょうか。主イエスを呼びに来たのです。
祈りを妨げられたはずですが、それでも主イエス様は弟子を叱らず、対応されます。しかし、弟子たちが求める場所、カペナウムに戻るのではなく、別の町や村へ行くと言われます。人々から求められるからではなく、父なる神の御心、福音を広く伝えるために出て行くのです。
この特別な祈りの時が、一番大切なことを優先する助けになったのです。私たちにも必要でありながら、欠けている事ではないでしょうか。
創世記1章31節 第2コリント5章17節
人間にはいいところがたくさんありますが、その理由を聖書は明確に教えています。それは、人間が神に似たものとして創造されたからです(創世記1:27)。そして、神は創造したすべてをご覧になり「非常に良い」と見られ たのです。(それなのに人間と世界が苦しむ理由は罪が入ってきたためですが、詳しくは別の機会に)
人間が受け継いだ神の素晴らしさの一つは、創造性です。神が造られた自然を見ると、その精巧さと美しさに圧倒されます。その創造性、また美を喜び楽しむ心が人間だけに与えられています。ですから、私たちは美しいものに感動し、美しいものを作り出したくなるのです。その一例が、今日まで開催された教会文化祭に出品された作品たちです。
また私たちがキリストの内にあるなら、そこには新しい創造があると言われます。キリストを信じる者が全く新しくされ続けるのです。罪が赦され、罪ゆえにゆがめられた本来の創造性を回復し、クリエイティブに生きることができるようになるのです。この素晴らしい約束をぜひ受け取って下さい。
マルコ1章29-34節
主イエスが会堂で権威をもって教え、汚れた霊につかれた人から礼を追い出された後で、すぐに一行はシモンとアンデレ兄弟の家に入りました。会堂から近かったのでしょうか。それだけではなく、シモンの姑を癒やすためだったのではないかと思います。
家に入られたイエスに、人々は姑が熱で寝込んでいることをさっそく伝えます。主イエスが手を取って起こされると熱がひき、何と姑が一行をもてなしたと書かれています。癒された喜びを感じます。
日が沈むと、町中から病人や悪霊につかれた人々が連れて来られ、多くの人をイエスは癒されます。この方のところに連れて行けば大丈夫、癒されると人々が集まったのでした。しかし皆が、主イエスが誰で、何の権威で癒しや悪霊追い出しをしておられたか、分かってなかったので、悪霊がものを言うのを許されませんでした。
今も、私たちが主イエスのところに行きさえすれば、私たちの問題は解決に向かいます。私たちにとって必要なら病も癒されます。私たちは、どんなことでも、すぐに、主イエスのところに持って行き、解決していただきたい。そしてそのことをまだ主イエスを知らない方にお伝えしたいと願います。
第2コリント5章14-19節
最近は以前に比べて、自分のやりたい仕事を探し、自 分の夢を実現する、というような風潮が強まっているように感じます。それ自体は悪いことではないのですが、私たちは自分のためという事を優先しすぎると幸せになれ ない面があります。そもそも何がしたいという事がはっきりしている事の方が珍しいかも知れません。そして私たちは誰かのために生きる、という事が必要なのです。
今日の箇所には「もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きる」と書かれています。それは、キリストの愛が私たちを捕えているから、つまりキリストが私たちのために十字架にかかり、救いを与えて下さったからです。私たちが気づく前から、キリストは私たちのために命をかけて下さいました。それによって私たちはある意味で生まれ変わったのです。
だから、私たちは新しくされ、新しい価値観をもって生きることができ、本当に大切なことに気づかされ、感動する心が与えられ、真の幸せを経験できるのです。私がキリストのためにできることは何でしょうか。
マルコ1章21-28節
主イエス様は先週の箇所で、師の側から弟子に声を かけて招くという型破りな事をされました。今日の箇所でも、人々が驚くような教えを語られます。
驚きの一つ目は、権威ある者として語られたという事です。聖書の言葉を教える時に、権威はその言葉を与えられた神のみにあります。ですから、神はこう言われると、 聖書の権威を語るのですが、主イエス様は神の御子としてご自分に権威があるように語られたのです。
驚きの二つ目は、言葉によって奇跡を起こしたという事です。なぜかその場に汚れた霊に取りつかれた人がい たのですが、主イエス様が「黙れ、この人から出ていけ」と𠮟りつけられると、霊が従い出て行ったのです。ただの教えではなく、本当に力があった。
見聞きした人々は本当に驚きました。
今、聖書を読んで追体験している私たちも、この主イエス様のことばを聞き、体験したいと願います。主イエス様が神の御子であることを信じ、そのお言葉が実際に私 の人生の中で奇跡を起こして下さることを。
マルコ1章16-20節
主イエス様がガリラヤ地方から福音を宣べ伝え始められてすぐ、弟子を招かれました。漁師をしていたシモンとアンデレ、ヤコブとヨハネの2組の兄弟です。ガリラヤから働きを始められたこと、最初の弟子がこの4人だったことに、意味があるはずです。
漁師は人の尊敬を集める仕事ではなかったようです。 しかし、主イエスはそんな彼らに声を掛けられました。人間をとる漁師にしてあげよう、と。魚を捕って生活の糧を得る生き方から、人に福音を伝え、救い導く生き方へと召されたのです。
彼らはすぐに、持っていた網(生活の糧を得る手段)や、父と雇い人(離れがたいもの)を残して主イエスについて行きました。彼らの決意が立派だったというよりも、ついて行きたくなるものを主イエスが持っておられたのでしょう。
私たちも、主イエスに出会ってその魅力に触れ、主イエスについて行く者になりたいと願います。そしてこの素晴らしい方を伝える者になりたいと願います。
ヨハネ14:1-6、黙示21:3-4
今年に入ってから、教会の方が2名天に召されました。 今まで以上に、さらに天国を身近に感じます。そして、天 国があると知っていることと、そこに必ず行けると信じら れることが、どれほど幸せかを痛感しています。
今日の箇所で、主イエス様は、恐れ惑わずに信じなさ いと言われます。神をイエス様を信じ、神の愛の御心を 信じるようにと言われるのです。
ここで言われている父の家とは、私たちからすれば天 国の事です。そこには場所がいっぱいあり、主イエス様 は私のための場所を備えに先に行かれ、準備ができたら 迎えに来ると言って下さるのです。天国が確かにあり、主 イエス様自らが場所を整えて準備して下さり、ちょうどい い時に迎えに来て下さるというのです。
私や家族が願うタイミングとは違う場合があります。で も、この地上よりももっといい場所が準備できたら、その 時がベストのタイミングでしょう。早く行けることが褒美 であると言ってもいいかも知れません。そういう価値観 の転換が必要です。
そしてイエス様が道なので、その道を通りさえすれば、 迷わず行けるのです。主イエス様を信じ、確かに存在す る天国、先に私たちの愛する家族が行っている天国を、 私たちも目指して生きていきたいと願います。
アモス4章12節
普通終活と言うと、いつの間にかたまりにたまった荷 物の処分や、エンディングノートを作成して自分の葬儀 などの希望を伝えておくことでしょう。それは家族にとっ てとても助かります。しかし、ご本人にとって、ひいては家 族にとっても、最も大切なことは心の終活です。
今日の聖書箇所では、「神に会う備えをせよ」と言われ ます。私たちは地上の生涯を終えた後で、神に会う。その 準備ができているかと問われるのです。
いろんな制約があり思い通りでなかった部分もある自 分の人生を、それでも神に感謝して終えることができる のか。家族などの大切な人に対して、やり残しの宿題は ないのか。神の前で胸を張っていられるのか。それらを 整理することが、終活の最も大切な部分ではないでしょ うか。
年を取ると、新しいことをしたり、何かに取り組む気力 が萎えたりするかも知れません。しかし、誰でもキリスト の内にあるなら、その人は新しく創られた人だと言われ ます。新しくされ、若い気持ちで、神に会う備えをして下 さい。心からお手伝いします。
マルコ1章14-15節
主イエス様は、荒野で40日間サタンの試みを受け、無事生還されました。その後、自分の郷里であるガリラヤ地方に戻り、そこで宣教の働きを始められます。都会から一段下に見られていたであろう地方から、神の福音が語り始められたのです。
イエス様が直接語られた神の福音の内容は、まず第一に「時が満ちて、神の国が近づいた」という事でした。イエス様の時代は、ローマに支配されたことによって戦いは減り、立派な道が整備され、福音を伝えるのに条件がそろいました。そして条件が整っただけでなく、旧約聖書に預言された神の国、神が救いをもたらされる時が近づいたと言われるのです。
救いを得るために必要なのは「悔い改めて福音を信じる」ことです。まず自分が神の前に罪びとであることを認めて、悔い改めることです。今までの人生、しがらみ、プライドが邪魔をしますが、神の前に一人の人間として素直になる事が必要です。そして福音、良い知らせを信じるのです。主イエス様が救い主であり、その方を信じるならば罪赦されて救われるという事。それだけでいいのです。それが、イエス様が語られた福音です。
ルツ記4章1-22節
いよいよルツ記が終わりますが、まさにハッピーエンドです。すがすがしいのは、策を弄したり騙したりする人間の醜さが出てこないからでしょうか。
ボアズはすぐに行動を起こし、当時の公式な場であった町の門で、買い戻しの権利のある親類と町の長老10人を呼び止め、相談します。その時も、その親類の権利を尊重し、法にのっとって話を進めます。
結果的にその親類は、土地と一緒に未亡人ルツも引き受けるという定めには従えない、と言ってその権利を放棄します。それでボアズは、ずるいことを一切せずに正式にルツを妻に迎えることができたのでした。そこに彼の誠実さと信仰深さを見る思いがします。
ルツはボアズの妻となりますが、ルツ記の中で唯一、主がなさったと書かれているのが「ルツを身ごもらせた」という事です。新しい命を与えるのは主だけであり、歴史を支配しておられます。
この子は主がナオミに下さった大きな喜びであり、エリメレクの後継ぎとなるだけでなく、何とあのダビデ王の祖父となるのです。何もかも失って途絶える寸前だった家系に、王が生まれるのです。主の御業は私たちの想像を超えて、力強くみこころを実現されるお方です。
マタイ15:21-28
イエスはそこを去ってツロとシドンの地方に退かれた。
すると見よ。その地方のカナン人の女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が悪霊につかれて、ひどく苦しんでいます」と言って叫び続けた。
しかし、イエスは彼女に一言もお答えにならなかった。弟子たちはみもとに来て、イエスに願った。「あの女を去らせてください。後について来て叫んでいます。」
イエスは答えられた。「わたしは、イスラエルの家の失われた羊たち以外のところには、遣わされていません。」
しかし彼女は来て、イエスの前にひれ伏して言った。「主よ、私をお助けください。」
すると、イエスは答えられた。「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのは良くないことです。」
しかし、彼女は言った。「主よ、そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパン屑はいただきます。」
そのとき、イエスは彼女に答えられた。「女の方、あなたの信仰は立派です。あなたが願うとおりになるように。」彼女の娘は、すぐに癒やされた。
マタイ15:21-28
イエスはそこを去ってツロとシドンの地方に退かれた。
すると見よ。その地方のカナン人の女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が悪霊につかれて、ひどく苦しんでいます」と言って叫び続けた。
しかし、イエスは彼女に一言もお答えにならなかった。弟子たちはみもとに来て、イエスに願った。「あの女を去らせてください。後について来て叫んでいます。」
イエスは答えられた。「わたしは、イスラエルの家の失われた羊たち以外のところには、遣わされていません。」
しかし彼女は来て、イエスの前にひれ伏して言った。「主よ、私をお助けください。」
すると、イエスは答えられた。「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのは良くないことです。」
しかし、彼女は言った。「主よ、そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパン屑はいただきま
す。」
そのとき、イエスは彼女に答えられた。「女の方、あなたの信仰は立派です。あなたが願うとおりになるように。」彼女の娘は、すぐに癒やされた。
マルコ1章9-13節
マルコの福音書は一番短い福音書でもあり、今日の主イエス様の受洗と荒野での試みがほんの5節で記されています。短いという事は、いろんなものをそぎ落としているという事でもあります。
受洗と荒野での試みでマルコが伝えたかったことは、何でしょうか。受洗の場面では、主イエス様と父なる神の関係です。ヨハネとのやり取りは全く書かれず、天が裂けて御霊が下られたことと、天からの声が記されています。主イエス様が、ただの人ではなく、御子なる神であり、父なる神に喜ばれているという事です。その大切な方が、私たちを救うために来て下さったのです。
荒野での試みの場面では、公に働きを始めるための試練を経られたという事です。御霊に追いやられた荒野で40日もサタンの試みを受けたのに、その詳細は書かれません。どれほど大変だったかと想像しますが、淡々と御使いたちが仕えていたと記されます。人として飢えに耐えながら、神として御使いに仕えられて、その期間を乗り越えられました。それも、私たちを救う働きを始めるためだったのです。
マルコ1章1-8節
今週から、マルコの福音書を読みます。マルコの福音書は4つの福音書の中で最初に書かれたもので、主イエス様の行動が生き生きと描かれています。
その福音書は「神の子、イエス・キリストの福音のはじめ」という言葉で始まります。イエス様が神の子、救い主であることを伝えることがこの福音書の目的であり、その最初が「道を備える者」としてのバプテスマのヨハネのメッセージです。
ヨハネは、その時代からさらに700年も前のイザヤ書に預言されていた「使い」でした。主イエス様の通られる道を備えるために、悔い改めのバプテスマを宣べ伝えたのです。その姿は、旧約聖書の大預言者エリヤを彷彿とさせるもので、訴えるものがありました。自分の後に、自分よりも力のある方、救い主が来られ、聖霊によってバプテスマを授けられると語りました。ユダヤ地方の全域から人々が集い、自分の罪を告白してバプテスマを受けたそうです。
本当に心が変わった証拠として、生活を変えるようにと語り、人々はそれに応えて悔い改め、バプテスマを受けたのでした。私たちも、語られるメッセージに応えて、生活が変えられるようにと願います。
ルツ記3章1-18節
この「あなたが幸せになるために」は、姑のナオミが嫁のルツに語ったことばで、身の落ち着きどころを私が探してあげないといけない、と続きます。落穂拾いの仕事も数週間だけのことで、これから先どのように生きていくか、祈りつつ考えていたのでしょう。
ナオミの結論は、買い戻しの権利のある親類であるボアズと結婚できるように、ということでした。そのために、仕事終わりの打ち上げのあとでボアズの寝床に潜り込むよう助言し、ルツは従順に従います。
夜中に気づいたボアズは驚きますが、ルツの説明を聞いて納得しました。ルツの人柄と誠実さを知っていたので、法律に従ってルツと結婚してもよいと答えます。しかも、ボアズよりも近い親類の意向を確認しないといけないのですが、それも法律にのっとって手続きすると語ります。ルツに好意を持っていたようですが、神様がみこころを実現されると信じているので、自分の思いでじたばたしないのです。
ボアズはルツに、「主は生きておられる。朝までお休みなさい」と告げます。神にお任せして、寝るのです。全能の神にお任せしつつ、ベストを尽くせばいい。それは本当に幸いな事です。
第1コリント9章24-27節
コロナ対応の不備と、不公平さに物議をかもしつつ、オリンピックが始まりました。準備側の不手際と関係なく、メダルをかけて、早速熱戦が繰り広げられているようです。選手たちには、実力を発揮して頑張ってほしいと思います。聖書はいろんなたとえで真理を教えていますが、まさにオリンピックのようなたとえを用いているのが今日の箇所です。
競技場で走る人たちで、賞を受けるのは一人。当時は金銀銅ではなく、1位だけがオリーブの枝などで作った冠を受け取れたのでしょう。
だから私たちもその姿勢に倣って、賞を得られるような生き方をするように、と励まします。
ではその賞は何なのか。アスリートはその「朽ちる冠」を受けるために、あらゆる節制をして競技に臨みます。でも私たちが受け取るのは「朽ちない冠」です。「朽ちる冠」のためでさえアスリートはすべてをかけて挑むのに、「朽ちない冠」のためならなおさらではないか、と。
朽ちない冠とは、神が私たちに下さる冠です。私たちは、人からの栄誉を求める時に、目標を見失い、動機が不純になり、真の力を発揮することができなくなります。あの映画「炎のランナー」のエリック・リデルのように、神からの栄誉を求めて、力強く生きることができますように。
ピリピ書4章21-23節
手紙の最後に、パウロはあいさつと祝福の祈りを記します。ここでは、手紙の書き方に沿って書かれている部分と、不思議な部分が混在しています。 定型に沿っているのは、パウロとパウロのそばにいる人たちから、受取人への挨拶です。また、最後に受け取る人への祝福の祈りがある事です。
不思議なのは、受取人の中に個人名がないことです。 パウロはほとんどの手紙で、受取人のリストに個人名を入れて、「誰誰によろしく」と書いています。特に親しいはずのピリピ教会の人たち、いくらでも名前を挙げられるはずのピリピ教会の人たちの名前を、不自然なまでに一人も記していないのです。
これは、全員の名前を書ききれないので、一部の人の 名前だけを挙げてしまうと、親しいゆえに逆に教会の中に妬みや混乱をもたらすと考えたからではないでしょうか。そうならないために、全員、一人一人がキリスト・イエ スにある聖徒であり、その全員をパウロは愛し、覚えているということを伝えるためだったと思うのです。
各方面に配慮してかえって心のこもらないあいさつになりかねないところを、逆に一人一人に届くように語る。 神様もあなたに語り掛けておられます。
ピリピ書4章15-20節
パウロは直前の14節で、ピリピ教会の人たちに「私と苦難を分け合ってくれた」と語りましたが、それが15-16節に具体的に書かれています。パウロが働きを始めた最初から、唯一サポートしてくれた。それも、実際に物をやり取りして。さらに、テサロニケに移ってからも、しかも2回も支援してくれた。と。
本当に行き届いた、心のこもった支援でした。しかしパウロが求めているのは、物を受け取る事ではない、自分の収入ではないと言います。そうではなくて、支援した側が霊的に祝福される事をこそ求めているのだと。
確かにパウロは贈り物を受け取って満ちあふれました。それは生活が豊かになったという意味ではなく、贈り物が神が喜ばれるささげ物であることを喜んだのでした。
貧しい中からパウロに贈り物を送ったピリピの人たち。その彼らの必要をすべて神が満たして下さる。人間の計算をはるかに超えた、あふれるばかりの神の豊かさから満たして下さるという事をパウロは知っていたのです。
神によって満ち足りた人は、自分の収入になるかどうかにとらわれません。それらを超えて私と相手を祝福して下さる神の恵み、神の豊かさに目を留めるのです。神は何のあてもなかった二人を養うだけでなく、この先の導きを用意しておられたのです。神様の導きに無駄はありません。本当に励まされますね。
ルツ記2章14-23節
ルツが落ち穂を拾うために出て行った畑は、はからずも親戚のボアズの畑でした。ルツの仕事ぶりを見て、ボアズはルツに対してさらに好感を持ったようです。食事の時には煎り麦を食べきれないほど与え、落ち穂を拾う時には特別扱いをして、使用人に彼女に惨めな思いをさせてはならない、𠮟ってはならないと命じます。
ルツが夕方まで働いて手に入れた大麦は1エパ(23リットル)もあり、それを持って帰ったらナオミから「今日はどこで働いたの?」と驚かれます。普通は1日で集められるはずのないほどの量だったからでしょう。
ルツがボアズの畑だと答えると、そこで初めて知ったナオミは、ボアズが買い戻しの権利(困窮して土地を売った人の親戚が買い戻す)のある親戚だとルツに告げます。
そのボアズの畑で、大麦だけでなく続く小麦の収穫が終わるまで、ルツは落ち穂拾いを続け、二人の生活が支えられたのでした。今後の展開を期待させます。
神は何のあてもなかった二人を養うだけでなく、この先の導きを用意しておられたのです。神様の導きに無駄はありません。本当に励まされますね。
エホバの証人(ものみの塔)・統一協会(教会)・モルモン教とは関係ありません