礼拝説教 要約と音声


礼拝説教の要約をご紹介しています。Youtubeチャンネルにて動画も配信しています。

2024年6月23日

世の終わりのしるし

マルコ13章1-8節

 

宮で教えていた主イエス一行が宮から出ていく時に、一人の弟子が感嘆して「この建物はなんと素晴らしい」と主イエスに言います。それに対して主イエスは、この目を奪われるような建物が破壊される事を預言されました。

弟子たちは後で、いつそんなことが起こり、終わりのしるしは何かと主イエスに尋ねます。

主イエスはいつ、という問いにはすぐに答えず、しるしとそれに対する注意を語ります。偽キリストが大勢あらわれて人を惑わすので、惑わされないように気を付けること。また戦争が起こり、地震や飢饉が起こるが、うろたえないように。それらは終わりの始まりであること、を教えました。

戦争や地震や飢饉とは、まさに2024年の出来事を言い当てています。世の終わりが近いと感じます。しかし現代の私たちにも、惑わされないように、うろたえないようにと語られたのです。それらの苦難は想定外ではなく、

2000年前に主イエスが語っておられた事でした。世の終わりのしるしを預言された方は、その苦難から必ず守って下さる方でもあるのです。


2024年6月23日

怒りによらず

ヤコブ1章19-22節

 

数年前に有名な脳科学者が「正義中毒」という言葉を使いました。他人に正義の制裁を加えることで脳内にドーパミンが放出され、その快感に溺れた中毒状態の事です。それは自分の正しさを疑わず、自分の物差しに外れた他人を悪と決めつけ、怒りをぶつける状態でもあります。それは戦争を仕掛ける指導者だけでなく、私たちの内にもあるものです。

聖書は、人の怒りは神の正しさを実現しないと教えます。義憤という言葉はありますが、怒りが動機となった行動には、ゆがみが生じるのです。だから私たちの言動が怒りではなく愛から出るものに変えていく必要があります。

怒りを動機とすることから脱するには、一呼吸置くとか数字を10まで数えるとか、いろいろ工夫はあります。しかし、私たちの心が変わらなければ根本的な解決にはなりません。それを助けて下さるのが、主イエスなのです。聖書に描かれている主イエスの愛を深く知り、今も具体的に私たちに働きかけて下さる事を経験する事によって、確かに私たちの心と生き方が変えられます。この素晴らしさをぜひ経験して下さい。


2024年6月16日

雲が上れば旅立つ

民数記9章15-23節

 

エジプト記が終わった、その直後の話です。幕屋が完成した日に、神の臨在のしるしである雲が幕屋をおおいました。 昼は雲、夜はそれが火のように見えました。

イスラエルの民は、荒野の40年間、この雲が天幕を覆っている時は宿営を続け、雲がのぼったらすぐに旅立ちました。主の命として、はっきり分かる形で神が導いておられる、その導きに即座に従い続けたのです。

宿営に適した場所からは、移動したくないこともあったでしょう。逆にここには長くとどまったからもう出発する時だと思う事もあったでしょう。しかし、彼らは人間の思いによって判断するのではなく、主の命によって宿営し、旅立ったのです。極端な場合、半日でも雲がのぼれば旅立ち、1年でも雲がとどまれば宿営し続けました。すべて、主の命により、主への務めを守ったのです。

私たちも、今置かれている場が故郷でも目的地でもないのに、そこにとどまって主への努め、責任を果たすことを神は願っておられます。同時に、主が導かれたら未練を感じずに旅立つように、天の御国を目指して生きていることを忘れないように、語られます。

会堂建設だけでなく、生活のすべてにおいて、主の命に従い祝福を求めていきましょう。


2024年6月9日

神に喜ばれるささげ

マルコ12章38―44節

 

今日の箇所の前半で、主イエスは「律法学者たちに気を付けなさい」と言われました。何に気を付けるのでしょう? それは、律法学者たちのようにならないように、そして律法学者たちの犠牲にならないように、ということでしょう。

彼らは聖書の専門家であると言いながら、人から自分が偉い人として扱われることを願っていました。またやもめを食い物にし、長々と祈り敬虔に見られたがったようです。彼らは厳しい罰を受けると言われています。

次に、主イエスがなぜ人々が献金箱に人々がお金を投げ入れるのを見ていたのかと思いますが、お金の扱いがその人の価値観を表すからです。主イエスは、食い物にされる側のやもめ(未亡人)の献金を例に挙げて称賛されました。乏しい中から、持っているすべてをささげたからです。

これは、生活に必要な物は神が与えて下さるという信頼の表れであり、また神へのこの上ない感謝を表していました。他の人からどう見られるかは全く考えずに。私たちも、自分で自分の安心を確保しようとするのでなく、神の恵みにすべてを委ねる信仰を与えていただきたいと願います。


2024年5月26日

神に任せられる安心

詩篇139:13-16、マタイ11:28

 

今日の詩篇の箇所では、神が私たちを最高傑作として造られた事が書かれています。恐ろしいほど不思議に造られているのです。

ですから、私たちは本来の自分以外の何者かになる必要がないのです。本来の自分を取り戻すことが大切な

のです。これは子どもに対しても同じです。その子の特性を矯正するのではなく、本来の良いものがゆがめられずに成長する事が大切なのです。

これは心の事だけでなく、体も神が造られたものです。スウェーデンのゴスペル歌手のレーナ・マリアさんは、生まれつき両腕がなく、片足も半分の長さで、身体的には重度の障がい者です。しかし彼女は自分を神の最高傑作と受け止め、いろんなことに挑戦し(パラリンピックにも出ました)、神に愛され神を信じる喜びを歌って、多くの人に感動を与えています。

これらの事を知っても、私たちは疲れることがありますが、主イエスは「疲れた人、苦しんでいる人は、私のもとに来なさい。わたしがやすませてあげる」と言ってくれます。主イエスのもとで憩いを得て、私も子どもたちも本来の自分を回復する人生を歩めますように。


2024年5月19日

ダビデの主、キリスト

マルコ12章35-37節

 

今日の35節で突然のように主イエスが問いかけられました。詩篇110篇ではダビデがキリストを私の主と呼んでいるのに、なぜ律法学者はキリストはダビデの子孫だと言うのか、と。

なぜこのようなことを問われたのでしょうか。律法学者たちが「イエスはキリストではない」と言いたいがために、イエスはマリヤの子だがヨセフの子(つまりダビデの子孫)ではないと主張したのではないかと想像されます。

もちろん、家系としてキリストはダビデの子孫として生まれると預言されています(イザヤ書11章など多数)。しかし、そのダビデが救い主を私の主と呼んでいる、その姿勢の方が大切であると語っておられるのです。

律法学者たちは、自分たちの判断でイエスが救い主かどうかを決める、という姿勢でした。しかし、それは人間が傲慢に決める事ではありません。人間ができることは、救い主を「私の主」と呼んで謙遜に従う事です。イエスがまことの神であることを理解することは大切ですが、私たちが判断して救い主だと認めるということではありません。もしそうなら、私たちの気に入る救い主でなければ認めない、という考えにつながります。私たちが認めるのではなく、この方をより深く知って謙遜に従うことが、正しい心のあり方なのです。


2024年5月12日

一番大切な教え

マルコ12章28-34節

 

12章で2つのグループが主イエスに議論を吹っ掛けるために質問しましたが、それを見ていた律法学者が「どれが第一の戒めですか」と尋ねました。イエスを試すためではなく、考えを知りたいと願ったようです。

主イエスは、第一の戒めとして神を愛すること、第二の戒めとして隣人を愛する事だと答えられました。一言で神髄を答えるのは、本当に理解してないとできない事です。主イエスが神を信じる者に最も大切なことを教えて下さったのです。私たちはこのように、全身全霊で神を愛し、隣人を自分自身のように愛しているか、その事を問われます。

それを聞いた律法学者は「そのとおりです」と答えました。上から目線に聞こえなくもないのですが、その後の言葉をみると、心から同意して答えているようです。

彼に対して主イエスは「あなたは神の国から遠くない」と答えられます。議論をふっかけた人たちと違い、神を信じ従う姿勢があったからでしょう。同時に、「遠くない」のはまだ入ってないのです。神の国に入るためには、理解しているだけでなく、主イエスを救い主と信じる事が必要なのです。


2024年5月5日

安息日を祝福する

出エジプト20章8-11節

 

新会堂建設と共に私たちの信仰も建て上げられるよう、信仰の三本柱の一つである礼拝について学びます。

神は安息日を大切に、聖別しなさいと語られます。具体的には、一切仕事をせず、神を礼拝し、みことばを思いめぐらし、人と交わるために用いることです。丸一日を、そのように用いるため、聖別するのです。

この安息日の根拠は世界の創造にまでさかのぼります。神が6日で世界を創造し、7日目を休まれたので、私たちも休むのです。そのためにも6日間は誠実に仕事をし、神にゆだねられている責任を十分に果たすことが必要です。

休むことは、心身を休め、いろんな事をリセットする事でもありますが、同時に神への信頼の表明でもあります。休んでる間に、神が御業をなして下さる事を信じることでもあるからです。

現代の忙しい生活では、日曜日を一日聖別する事は難しいかも知れません。仕事が入ったり、そもそも家事に休みはありませんが、主が招いて下さっている交わりを喜び楽しむために、心を決め、ぜひ工夫しましょう。そうするならば必ず祝福があります。


2024年4月28日

感謝するためのヒント

第1テサロニケ5章16-18節

 

この第一テサロニケ5:16-18はとても有名なみことばですが、ここに感謝して生きるヒントが記されています。

ここでは、私たちの内側に喜んだり感謝したりできる理由があるかどうかに関係なく、「喜びなさい、感謝しなさい」と命じられています。そんなむちゃなと思うかも知れません。しかし、そのように命じられる根拠が、次に書かれています。キリスト・イエスにあって神が望んでおられる事だという事です。

神が私たちを愛するがゆえ、私たちを救うために主イエスを送って下さったこと。主イエスが私たちの罪を身代わりに負って十字架で死んで下さったゆえに、私たちの罪が赦される事。この神の愛を信じ、受け入れることを神が望んでおられるのです。

その土台がある時に、私たちは人と比べて一喜一憂しなくていいようになって行きます。神から与えられている

恵みに気づくことができるようになって行きます。それゆえ、喜び感謝することができるのです。


2024年4月21日

生きている者の神

マルコ12章18-27節

 

パリサイ人とヘロデ党の人が主イエスの言葉尻をとらえられず、次にサドカイ人が質問に来ました。サドカイ人とは祭司階級の人で、復活を否定していました。

彼らは、極端な例を挙げて、7人の兄弟と順番に結婚した人がいたら復活の際には誰の妻なのかと聞きます。それに対して主イエスは、彼らが聖書も神の力も知らないので、思い違いをしていると答えました。彼らは、地上のことばかり考え、神が分かってないのだ、と。

具体的には、第一に復活したら人は天のみ使いのように、結婚する事はないという事。第二に出エジプト記で、

神が「アブラハム、イサク、ヤコブの神」と語っておられ、神は生きている者の神であるからアブラハムたちも生きている、つまり復活はあるのだという事でした。

サドカイ人は神学的に考えて復活がないと主張していたわけではないのです。彼らは特権階級で現世で利益を得ており、この世の生活を充実させる事しか考えず、この世の人生を越えたところまで働く神の力を理解しようとしなかったからでした。

私たちは全能の神と救い主イエスを信じ、あるいは信じたいと願ってますが、いつの間にか地上での事ばかり考え願うようになってないでしょうか。神は生きている者の神であり、主にあって死ぬ者も復活のいのちをいただくのです。


2024年4月14日

カエサルのものはカエサルに

マルコ12章13-17節

 

主イエスのたとえ話(12章前半)で自分たちの事を指摘された祭司長、律法学者たちは、主イエスの言葉尻をとらえるためにパリサイ人とヘロデ党の者を数人遣わしました。そして、主イエスが人の顔色を窺わずに正しいことを教えていると持ち上げた後で、税金を払うことは律法にかなうかと質問させました。

この頃ローマに納める税金、特に人頭税はユダヤ人にとって最も屈辱的な税金だったようで、この問いはどう答えてもパリサイ人かヘロデ党のどちらかから責められ、民衆の支持を失うようなものでした。

それに対して主イエスは「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい」と答えて驚かせます。ユダヤ人がローマ帝国の支配は不満であっても、貨幣を筆頭にローマの法律やインフラによって支えられている事実を思い起こさせました。同時に、すべては神のものなので、自分自身の人生や生き方を神にささげたものとするようにと勧められたのです。「返す」のです。

私たちは、自分が人生の主人となって生きようとしますが、自分のいのちや人生は神に与えられたものであり、本当の主人は神なのだと認める事が大切です。日常生活と信仰を分けた生き方ではなく、それを一つにするようにと主イエスは語られるのです。


2024年4月7日

主が成し遂げてくださる

詩篇37章1-9節

 

2024年度の宇治福音自由教会のみことばを祈る中で、この詩篇37篇5節に導かれました。37篇は、悪者が栄える現実に語られたもので、その中に5節があります。

その中で腹を立てるな、と3度も語られます。義憤は必要ですが、私の怒りが純粋なものなのか、怒りがもたら

すものが何なのか、考えよと言われます。

悪に怒るのではなく、地上で神を信じる生き方の結実として主を信頼し、善を行なうように勧められます。その次に5節があり、主に委ね、主を信頼するようにと勧められます。善を行う事と、待つこと、それを主は求められるのです。

そうすれば、私たちではなく主ご自身が、物事を成し遂げて下さいます。願いをかなえて下さるという約束です。私たちの義など取るに足りないのに、それを真昼の太陽のように輝かせて下さいます。そして地を受け継ぎ神の祝福を十分に受けると約束して下さるのです。

私たちは今年度、主がみわざを成し遂げられるまで、積極的に期待して信頼して待ちたいと思います。

主よ、そのような信仰を私たちに与えて下さい。


2024年3月31日

神に捨てられてまで

マタイ27章45-56節

 

十字架につけられ、群衆や祭司長たちや同じ十字架につけられた犯罪人にまでののしられた主イエス。12時から15時まで全地が闇に覆われた後で、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか!」と大声で叫ばれました。本来神に見捨てられるべき罪人である私たちの代わりに、絶対に見捨てられるはずのない神の子が見捨てられた者となって罰を受けてくださったのです。それで私たちは、その救い主を信じるなら救われるのです。

主イエスが最後にもう一度大声をあげて息を引き取られると、多くの奇跡が起こりました。神殿の幕が突然裂け、地が揺れ動き、岩が裂け、死人が生き返りました。その様子を見ていた百人隊長が、非常に恐れながら

「この方は本当に神の子であった」と告白します。それらの奇跡に遭遇したからだけでなく、息を引き取るまでの主イエスの姿に、ただの人ではない、まさに神の子としての力や品性を感じたのでしょう。

私たちは、自分こそが神に捨てられるべき罪深い存在であることを知り、その私のために死んでくださった方を

「この方こそ神の子である」と告白して、生きていきたいと願います。


2024年3月24日

神に捨てられてまで

マタイ27章45-56節

 

十字架につけられ、群衆や祭司長たちや同じ十字架につけられた犯罪人にまでののしられた主イエス。12時から15時まで全地が闇に覆われた後で、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか!」と大声で叫ばれました。本来神に見捨てられるべき罪人である私たちの代わりに、絶対に見捨てられるはずのない神の子が見捨てられた者となって罰を受けてくださったのです。それで私たちは、その救い主を信じるなら救われるのです。

主イエスが最後にもう一度大声をあげて息を引き取られると、多くの奇跡が起こりました。神殿の幕が突然裂け、地が揺れ動き、岩が裂け、死人が生き返りました。

その様子を見ていた百人隊長が、非常に恐れながら「この方は本当に神の子であった」と告白します。それらの奇跡に遭遇したからだけでなく、息を引き取るまでの主イエスの姿に、ただの人ではない、まさに神の子としての力や品性を感じたのでしょう。

私たちは、自分こそが神に捨てられるべき罪深い存在であることを知り、その私のために死んでくださった方を「この方こそ神の子である」と告白して、生きていきたいと願います。


2024年3月17日

ののしられても

マタイ27章27-44節

 

主イエスの受難は4つの福音書すべてに記録されていますが、不思議なことにむち打ちや十字架刑の苦しさとむごたらしさはほとんど書かれていません。それは、受難の中心が肉体的な苦しみではないからです。

今日の箇所で何度も出てくるのが、からかった、ののしった、嘲あざけったという言葉です。兵士たちは王服のようなマントを着せ、茨の冠をかぶらせ、葦の棒を持たせた主イエスの前にふざけてひれ伏し、唾をかけ頭をたたきました。

通りがかりの人も、祭司長・律法学者・長老たちも、さらには一緒に十字架につけられた強盗たちですら、主イエスをののしり、嘲りました。「他人を救っても自分を救えないのが、本当に神の子なのか」という嘲りです。主イエスが他人を救っていることを知りながら、その愛と奇跡に触れながら、神の子であることを信じない罪深さ。主イエスは、その彼らのために、一言も言い返さずに十字架にかかり続けられました。

主イエスが十字架で私たちの身代わりとなって下さったがゆえに、私たちは救われるのです。


2024年3月10日

ぶどう園のたとえ

マルコ12章1-12節

 

この例えは、主イエスが祭司長、律法学者、長老たちと論争する中で語られたものです。彼らがイスラエルの民を正しく導いていない、ということを指摘しました。

主人は神様、ぶどう園はイスラエルの民、農夫が彼ら指導者たち、しもべは預言者たち、息子は主イエスです。彼らは神が遣わされた預言者を、事もあろうに迫害してきたのです。そして、神の子である主イエスも殺そうとしている(実際にこの後十字架で殺す)のです。

イスラエルはこの後、ローマ帝国によってエルサレムを陥落させられ、殺され、他の民族のものとなります。この例えの通りのことが起こってしまいます。

このたとえは、指導者たちが少しでも自分の姿に気づいて悔い改められるように語られたのですが、彼らは認めませんでした。主イエスは、悔い改めるなら常に受け入れて下さるのに、彼らは悔い改めなかったのです。

私たちも、このぶどう園の一人です。収穫を神にお返ししたいと思います。神が整えて下さったこと、備えられ与えられたものを感謝し、豊かな実を結びたいと願います。それは、十字架にかかった救い主である主イエスが、実現させてくださいます。


2024年3月3日

私たちは挑戦できる

マタイ25章14-30節

 

先週のメッセージは「思い煩うな」というテーマでしたが、最後に「もっと素晴らしいものがある」と予告しました。それが、挑戦して祝福されるという生き方です。

主イエスは、主人に莫大な財産を預けられたしもべたちの例えを話されました。今で言えば億単位のお金を預かり、主人が帰るまでに倍に増やしたという話でした。たとえ長期間だったとしても、リスクを取って商売をし、それを誠実に続けないと倍には増えないはずです。

しかし一人はリスクを取ることを恐れ、地面に埋めておいたと言います。それは「安全」だったかもしれませんが、結果的に全く利益を産まないどころか、物価が上がれば目減りしたはずです。しもべたちの主人は、帰って来て清算した際に、それを責めました。

私たちも、必要以上に安全を求め、失敗を恐れ、リスクを負わないことを最優先にするような生き方になることがあります。「無事終わりますように」という言い方は象徴的です。

しかし、神を信じる者にはハッピーエンドが約束されているのですから、失敗を恐れて「安全」な道を選ぶだけでなく、チャレンジすることができるのです。趣味も、仕事も、奉仕も、そして会堂建設も、主にあってワクワクしながらチャレンジして行きましょう。


2024年2月25日

思い煩うな

ピリピ4章6-7節

 

  ニュースを伝えるメディアは事件を伝え、様々な会社は私たちの不安を煽るようにしてサービスや商品を購入させようとします。生活必需品の次に私たちが切実に求めるのが、不安の解消だからです。 

私たちの不安に対して、神様は聖書を通して「一切思い煩うな」と命じられます。思い煩ってよいことなど一つもない。そしてそれは「命令」なので、私たちの気持ちを脇に置いて従うべきです。さらに心配事ではなく感謝で心を満たし、心配なことは祈りで神に伝えて任せてしまう。祈りは気休めではなく、本当に私たちの必要を神にお伝えし、お任せするためにとても大切な営みなのです。 

そうすれば、どんな知恵や知識をも超えた神の平安が私たちの心も思いも守って下さると言われます。不思議に説明のしようのない平安が与えられ、心を満たしてくれます。それは、何とか無事に過ごせればいいという消極的な生き方ではなく、神と共に充実した人生を生きるという積極的なレベルにまで私たちを引き上げてくれます。私たちは大胆に自分の賜物を活かし、喜んで生きていけるのです 

先の見えない不安な時代に、神を信じる事がどれほど安心で幸せなことなのか、体感していただきたいと心から願っています。 


2024年2月18日

何の権威で

マルコ11章27-33節

 

 宮きよめの出来事から、主イエスをどうしたら殺せるかと相談し始めた祭司長や律法学者たちが取った手段は、主イエスへの信頼や人気をなくすことでした。主イエスに宮で難しい質問を投げかけ、それに答えられない姿を群衆にさらしたいと考えたのでしょう。 

主イエスは、逆に「ヨハネのバプテスマは天からか人からか、どちらから出たのか」と質問することで切り抜けられました。これは単なる鋭い切り返しではなく、神のわざを素直に認めるよう考えさせるためでもありました。 

しかし祭司長たちは、答えによって自分たちの立場が危うくならないようにという判断を優先し、答えない事を選択しました。本来なら、天からの権威には従い人からの権威には従わないという姿勢を貫くべき人たちが、「分かりません」という答えによって自分の権威を守ろうとしたのです。 

私たちも、自分の権威や利益を失うことを恐れて、神に従わないということがあるのではないでしょうか。自分の権威を脅かしたり、変わるように促す声に耳を閉ざして、「分かりません」と逃げるなら、主イエスの事が本当に分からなくなります。 

主よ、あなたを信じ権威に従う者として下さい。 


2024年2月11日

自由を得させるために

ガラテヤ5章1節

 

このガラテヤ書の内容は、直接的には律法主義(律法を守ることによって神に喜ばれ、救われるという発想)に対する「自由」が語られています。

私たちは、自分の行いによっては救われません。神の基準に達する生き方はできないのです。だからこそ、罪深い私たちの身代わりに死んで下さった主イエスのゆえに、信じるならば救われるという福音を信じるのです。

そのように主を信じて救われたはずなのに、なぜまた良い生き方によって救われるという発想、律法主義の奴隷状態にいつの間にか戻ってしまうのか。それは残念ながらそちらの方が罪人にはしっくりくるからで、律法主義は根深いのです。

また、信教の自由という事を考えると、敗戦まで日本では天皇を神として拝み、絶対服従するよう強制されました。それは過去の事ではなく、「建国記念の日」もその復活の一つです。法律も、意識しないうちにどんどん変えられてきています。

再び奴隷のくびきを負わされないように、目を覚まして国の動向にも関心を持ち、少しでも正しい方向に進むように意識し、祈る者でありたいと願います。政治や日常生活にも、主の主権があらわされますように。


2024年2月4日

祈りを励ます

マルコ11章12-25節

 

 この箇所からのお話は今日で2回目ですが、同じ個所を「祈りを励ます」というテーマを教えられます。 

主イエスが前日に呪われたいちじくの木が、翌朝早く根元から枯れていたことで、弟子たちが驚きました。しかし主は驚くに足りないと、「神を信じるなら、山が動いて海に入る」と教えられました。普通、山は動きません。私たちの毎日にも、立ちふさがり、歩みを邪魔し、前に進めなくする障害があります。いろんな問題。乗り越えられない苦しみや悲しみ。克服できない罪。そのような山が、祈りによって動くと言われます。神を信じるなら、神が動かして下さるのです。だから、祈った事はすでに得たと信じなさいと励まされるのです。 

また、祈る時に人を赦すなら、あなたも赦されるといわれます。恨みや怒りという山を神が動かして下さるので、私たちが人を赦すという事が可能になります。神が私たちの罪を十字架によって赦して下さるという恵みを味わう中で、私たちは人を赦せるように変えられて行きます。それは、祈りの中で神との交わりに生きる中で、味わえるのです。 


2024年1月28日

神の愛の証し

ローマ5章6-8節

 

ローマ人への手紙は、キリストを信じる信仰について整理して教えています。今日の箇所は、キリストが十字架によって死なれたことによって私たちが救われること、そしてそれこそが神の愛の証明だと語っています。

キリストが十字架にかかって死なれたのは、私たちを救うためでした。その私たちがどんな人間だったかと言うと、弱かったと書かれています。これは自分の力では救われることができない、無力な存在という事です。また不敬虔な者とは、神の権威に逆らっている者です。そして神の前に罪を犯している罪人でした。

人間の常識では、善良な人のためなら死ぬ人もいるかも知れません。でも、正しくても冷たい人のために死ぬ人はいないでしょう。まして罪人のために死ぬ人などいないのです。しかしキリストは、私たちが罪人であったときに、その私たちのために十字架にかかって身代わりとなって死なれたのです。キリストが身代わりとなって下さったゆえに、私たちは信じるなら救われるのです。

そしてそれは父なる神の愛の証明でもありました。私たちのためにひとり子を犠牲にするほどの、想像を越えた愛です。神は私たちが生まれる前から、救いを定めておられたのです。


2024年1月21日

真の礼拝をささげる

 マルコ11章12-25節

 

 今日の箇所の前半は、主イエスがいちじくの木をのろうという珍しいエピソードが紹介されています。これは食べられなかった腹いせをぶつけたのではなく、当然実らせるべき実を結んでいないイスラエルの民の姿を重ねておられるのです。当然ささげるべき真の礼拝をささげていない姿です。

あらゆる民の祈りの家となるべき場所が、強盗の巣になっていると主イエスは言われました。そこは異邦人の庭という場所で、異邦人がそこまでしか入れず、そこで礼拝をしていた場所でした。そこがユダヤ人の礼拝準備のために、商売の場所に成り下がっていたのです。礼拝のために必要とは言え、両替えやいけにえを売る商売をしている人たちで一杯でした。祭司の店もあったと言われます。ユダヤ人が「正しい」礼拝をささげるために、異邦人の礼拝が犠牲になっていたのです。「正しい」礼拝を求める思いの内にすら、他者を省みない強盗のような貪欲があると主イエスは指摘されたのです。 

私たちの礼拝は、どのような礼拝となっているでしょうか。貪欲ではなく、自分をささげる礼拝となりますように。 


2024年1月14日

主は救い出してくださる

マルコ11章1-11節

 

 マルコの福音書は11章から、エルサレムでの主の受難の場面に入って行きます。そのエルサレムへの入城は、王としてのものでした。 

弟子が子ろばを借りる時に、「主がお入り用です」と言わせてあえて主と呼ばせたこと。ろばに乗り入城され、人々が上着や枝を敷いた道を進まれたこと。「ホサナ」から始まる人々の叫びを受け入れられたこと。そのすべてが王として、救い主として来られたことを表していました。 

主イエスと共にエルサレムに入城した人たちは、ホサナ、私たちを救って下さいと叫びました。しかしその人たちが、後で主イエスを十字架につけろと叫ぶのです。本当の意味では、主イエスを迎えていなかったのです。ゼカリヤ書9章9-10節の預言の成就であることが分かっていなかったのです。武力で勝利する救い主ではなく、平和をもたらす救い主であることを理解できなかったのです。 

主イエスは、へりくだった王として、ご自分のいのちを十字架で捨てるために来られました。この方を私たちの心にお迎えし、救いを受け、平和の君として治めていただきましょう。 


2024年1月7日

王として来られた主

マルコ11章1-11節

 

 マルコの福音書は11章から、エルサレムでの主の受難の場面に入って行きます。そのエルサレムへの入城は、王としてのものでした。 

弟子が子ろばを借りる時に、「主がお入り用です」と言わせてあえて主と呼ばせたこと。ろばに乗り入城され、人々が上着や枝を敷いた道を進まれたこと。「ホサナ」から始まる人々の叫びを受け入れられたこと。そのすべてが王として、救い主として来られたことを表していました。 

主イエスと共にエルサレムに入城した人たちは、ホサナ、私たちを救って下さいと叫びました。しかしその人たちが、後で主イエスを十字架につけろと叫ぶのです。本当の意味では、主イエスを迎えていなかったのです。ゼカリヤ書9章9-10節の預言の成就であることが分かっていなかったのです。武力で勝利する救い主ではなく、平和をもたらす救い主であることを理解できなかったのです。 

主イエスは、へりくだった王として、ご自分のいのちを十字架で捨てるために来られました。この方を私たちの心にお迎えし、救いを受け、平和の君として治めていただきましょう。